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"Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: miserere nobis." ……神の子羊、世の罪を除き給う主よ。我等を憐れみ給え。
Agnus Dei / アニュス・デイ(神の子羊) 煉獄島より脱出してからトロデ王と合流し、約一ヶ月ぶりの風呂にありつく。船室という狭い空間ではあるが、旅の仲間達はようやく落ち着いた心身を椅子に預けていた。 「レオパルドだって、杖に操られていただけだったのよ」 法王を殺めたハワードの飼い犬を倒せば、混乱の内に造反の疑いをかけられて地の底の監獄へと入れられた。彼の主人である大呪術師に「始末は任せる」と言われてはいたものの、いざ彼と対峙して倒した今はこれらの件は重い心のしこりになった。 「手をかけるのもかけられるのも、被害に遭ってることには変わりないわ」 ゼシカは暗い面持ちで言った。 重苦しい雰囲気の中で、それでも事態をよくしようと話を切り出すのは彼女らしい。 「ニノ大司教は、まだあの底に……」 「あのオッサン、最後はすごくいい奴になってたでげすよ」 彼女の言葉に促され、ヤンガスやエイトが口を開く。 トロデ王より自分達が囚われていた約一ヶ月間の情勢を聞いたときは沈黙に押し潰されそうなほどだったが、今はそれぞれが自分の感じた事を吐露していた。 「レティスの卵だって救えなかったし、私達は出遅れてばかりね」 「世話になったメディのばあさんも死なせてしまいやした」 死を見てばかりの己の無力と人間の小ささを実感する。 どれだけもがいても敵わぬ力。それはまるで運命であったかのように勢い良く動き始める悪の歯車。 「杖は今……」 エイトがそう呟くと、トロデ王は新しく法王となったマルチェロが戴冠式と演説を近く行うという情報を伝えた。聖地ゴルドは今やその準備で聖堂騎士団員や関係聖職者が集まり、日頃の巡礼者の多さに加えて観光客も増し、一際賑っているという。 「あの時、杖を持っていたのは……」 今や絶大なる権力を恣(ほしいまま)にしたマルチェロ。 異母兄弟の弟・ククールとは一筋縄には和解できない確執を残したままの相手である。 「……」 先程から一言も口を開かなかったククールは、彼の話題になると小さな溜息をついて部屋を出て行った。 「ク、ククール」 トロデ王が彼を引き止めようと慌てて振り返る。トロデ王は川沿いの教会でいつの日か彼に聞いた「事情」を思い出し、彼に何と言って良いやら分からないままオタオタと彼の前で手を振っていた。 「その、じゃな、」 時既に遅く、トロデ王は彼の部屋の扉が閉まる音を聞いて項垂れた。 「……」 どうしたものかと腕を組んで唸ったその時、隣でその様子を見ていたエイトが無言で立ち上がって彼を追いかけた。 「エイト、」 誰もがかける言葉に戸惑って口を閉ざしていた中、エイトはすぐさまククールの個室へと入って行った。 「神を信じるか?」 返事もロクに確認せずにエイトがドアをノックして空ければ、背を見せたまま立ち尽くすククールの姿が飛び込んだ。 「……」 普段に見せるおどけたような言い方も、低い声とその猫背では冗談には聞こえない。 「俺は一応、そいつに仕えてるんだが」 マイエラ修道院にあっては「異端児」と言われているものの、彼は修道院の中でも一際優秀な聖堂騎士団の一員である。僧侶としては申し分ない才能を持っているし、剣で彼に敵う者は余程居ない。 「ククール」 幼い頃から神を仰ぎ、これに仕えるよう修身してきた彼が、奔放で背徳的な行いをしてきたことは知っている。しかしその一方で、修道院の誰よりも信心深く神を愛しているのだとも知っていた。 「そいつは何処に居るんだろうな」 杖に宿る死神は居る。なのにどうして光の神は居ない。 「……」 エイトは答えられなかった。 大切な人が次々と闇の手に堕ち、善意の人が簡単にかけがえのない命を絶たれる。悪しきものばかりが広がって地を覆い、その恐怖を誰も食い止めることは出来ない。力なき正義と救いようのない悪とは、これほどまでに深い絶望を与えるものかと感じさせられる。 今しがた現実を突きつけられ、更に追い討ちをかけるように次々と舞い込んでくる負の情報には言葉がない。エイトは唇を噛んだ。 「幼い頃にさ、オディロ院長に“神は愛である”って聞いた事があるけどよ」 彼が修道院時代に唯一心を許せた最愛の、尊敬の人。彼が目の前で殺されたことでククールのこの旅が始まったのだ。 「神は何処にいる? 愛は何処にある?」 何処にもない。 ククールは背を向けたまま失笑して言い放った。 この世には神も愛も何もない。 あるのはただ、悲しみとやるせなさに包まれた絶望。 不条理と無秩序に泥濘(ぬか)るんだ、虚無。 「……」 エイトとて彼の言わんとする事は痛いほど理解る。 諸悪の根源たる杖は遂に最も苦手とする男の手に渡り、彼の握った権力とともに最悪の事態を招こうとしている。 素行こそ反骨を見せるものの、心根は誠の信仰に傾くククールは、腹違いとはいえ自分と血を分けた兄弟の成す偽りの正義によって、何も知らされていない世界の人々が苦しみ涙を流す姿は耐えられない。これまでマルチェロより残忍なまでの侮蔑と憎悪の眼差しを浴び続けてきたとはいえ、それを腹底から憎むことの出来なかったククールは、心の奥底ではまだ僅かに残された彼の改心と自分たち兄弟の関係の修復を心から願ってやまなかった。 終ぞ隠してきた心の何処かでは、まだ希望に縋り付いている自分がいる。口にこそ出しはしなかったが、オディロ院長より教わった愛と赦しの心は、迷いにある人を救えると信じているのである。 「エイト。俺には理解らない」 しかし今はそれが瓦解しそうだ。 世界の崩壊と、それに何も出来ない自分に狂いそうになる。 「どうして良いか理解らないんだ」 「ククール」 エイトより背の高い彼の背中が細く、小さく見えた。真紅に翻る騎士服も今日は翳ってくすんでいる。 彼に何が言えるのだろう。エイトは彼の凍るような絶望感を感じて慌てて部屋に来たものの、それを慰められる言葉が浮かばない。 それもそうだ。自分とて今の状況には喪失感を抱いているのだから。どうして良いか理解らない。そう言ったククールに、自分もどうしたら良いのか理解らない。 「ククール、」 それでもエイトは何かをせずにはいられなかった。どうしても彼の心を慰めたかった。 そう思ったエイトの身体は自然と彼へと近付き、ゆっくりとした足取りでその背中に身を寄せる。震える背中を抱き締めて、己の体温で温めようと腕を回す。 「神様の居場所は知らないけれど、」 エイトは、信仰に疎い自分が彼に神を語ることは出来ないと思った。 しかし。 「愛はここにあるよ」 それは確かに言えること。 「僕は君を愛してる」 ククールの言う通り、この世に神は居ないかもしれない。彼の愛もこの世では感じる事が出来そうにない。 でも、己の中の愛は此処にちゃんとある。それは確かな存在を持って、彼と彼の心を守りたいと必死に鼓動している。少しでも彼の傷を癒そうと悲鳴を挙げて脈打っている。 後ろ背に強い腕で抱き締められる。思いの強さまでが伝わるような抱擁は、ククールの細身を優しく包んだ。 「言って。どうして欲しい?」 「エイト」 彼の体温を感じる。 「どうしたら君は楽になる?」 「、」 「どうしたら、少しでも君の不安を取り除ける?」 エイトは彼の背中に向かって続けて言う。 懸命に聞いてくるその声はしかし穏やかにククールの心に染みていく。背中越しに胸に響く優しい音程は、トクントクンと鼓動を走らせた。 「やっべぇ、俺、」 (なんか泣きそう) お前に、お前の優しさに。 ククールは苦笑を交えてそう言おうとしたが、不意に語尾は震えていた。 「ククール、」 エイトが気付いて彼の前に身を乗り出すと、ククールは笑いと涙を堪えた複雑な表情でエイトを見つめていた。 こんな彼の姿など、エイト以外は誰も見ることはできないだろう。彼がやや頬を紅潮させているのは、昂ぶる感情と共に溢れそうになる目尻の涙を留めているからに他ならない。 「僕、どうしたらいい?」 エイトは目の前のククールに改めて問うた。 彼の美しい瞳から今にも零れそうになっている滴が切ない。くしゃりと笑みを作って感情を流そうとしている彼の心に斬られるほど焦がれる。 そうして心配そうに上目に見つめ返すエイトの肩をそっと抱き、ククールは胸の内に抱き寄せてその耳元に言った。 「エイト、」 優しいお前に我儘を言わせてくれ。 「お前の心の全部が欲しい」 俺をやる。俺を全部やる。 だからお前を俺にくれ。 痛いくらいの抱擁にエイトは呼吸を止めて、滲むような彼の声を聞いた。 己を抱き寄せながら、その腕を震わせて脅えているククール。悴んだような低い声は、魂の奥底から絞り出しているように感じた。 「ククール」 「……うん」 (怯えないで、ククール) エイトは静かに目を閉じると、下がっていた腕を彼の背に回しながら優しく答えていた。 「君に全部あげる」 彼の心臓に向かって言う。 「僕を全部、君にあげる」 あぁ。だから、どうか。 エイトは腕を強くして彼に言った。想いが伝わるように。愛が伝わるように。 どうか君にも安らぎを。 「……エイト」 ククールは聞いて思わず彼の細い顎を持ち上げ、柔らかい唇に自分のそれを押し当てて言った。 「前言撤回。神は居るらしい」 エイトの黒髪を覆うバンダナをそっと取って髪を露にし、優しく撫でて梳く。 ゆっくりと離れた唇の端に端整な微笑を見せて、ククールはエイトに囁いた。 「その証拠にお前が居る」 神はお前を俺に与えてくれた。 「、」 この大地に己と時を同じくして、同じ大地に彼を産み落とした。彷徨う自分の光として標として、自分と彼を巡り合わせたのだ。 「目の前のお前が俺の奇跡だ」 「ククール」 運命を呪ったことは何度もあるが、こうしてエイトと巡り会えた奇跡に比べればそれは感謝に変わる。予定されている出来事がそんなに不幸で酷いものであれ、二人が一緒ならば甘受できそうなほど。 ククールは今しがた己の触れた唇を愛おしそうに指で触れながら、間近に大きな瞳で見つめてくるエイトに微笑んで言った。 「次はゴルドへ行くんだろ」 「うん」 エイトは彼の表情を窺いながら、言いにくそうに頷く。 「兄貴と会うその時まで、傍に居て欲しい」 「ククール、」 その後だって離れないよ、という言葉は閉ざされた唇の奥に消えた。 "Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: miserere nobis."
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【あとがき】 DQ8はとにかく人が死ぬなぁと思います。 |