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 彼の微笑とも苦笑とも言えぬ笑みが何処か儚いと感じたのは、名も無き海洋を眺める横顔に不覚にも魅入られたあの瞬間。
 陽光を仰いで眩く白みがかる、まるで燃えるような空を境にして碧色に輝く海を見て、彼はピーテル・ブリューゲルの描いた「イカロスの失墜」を見るようだと言った。水面を渉る潮風に銀の髪を靡かせながら、やや皮肉を交ぜた冷笑が振り向いた時、エイトはやはり彼は美しいと思った。
 王の肖像画を含めトロデーン城内にも名画は何点も飾られていたが、芸術に疎いエイトはそれが誰の筆によるものなのかを気に留めたことがない。故にククールの言った何某とやらの絵画に描かれた海など知る由もなく、ただ今の風景がそれに近いのだろうと推察するしかない。
 蓋しククールとてその筆致の至微至妙を共感したくて切り出した話ではない。彼は左程反応を示さぬエイトと瞳を合わせると、柔らかく笑って麗顔を崩した。
「眩しいな」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ククールが手袋を填めた右手を額に翳して目を細めたのは、丁度自分が逆光を背負っていたからだと思っていたのだが、あの時太陽は確か真上に居た筈だった。エイトは夜になってその事実に気付くと、日中の彼の不可解な言動が気になって、遂に本人に問いただす。
……お前、今の雰囲気で言うかな」
 前戯も佳境に入った蜜やかなベッドの上で、着衣を乱したエイトがあどけない童顔で言うものだから、彼の肌蹴た胸元に唇を落としていたククールの方はガックリと項垂れて肩を落とす。
「なんか気になって集中できなくて」
「ショックな台詞を軽く言ってくれるぜ」
 甘い夜に酔い痴れようとしていたのは自分だけだったのか。ククールは温い溜息とひとつ吐くと、目の前の恋人に苦い笑みを零して詰った。彼はエイトの黒髪に長い指を入れて掻き上げ、現れた広い額に軽い口付けを落として言う。
「なぁエイト。イカロスの話を知っているか?」
 薄暗い宿の一室、サイドテーブルの燭台の明かりを受けたククールは、その伏せた目蓋より覗く睫毛を白銀に煌かせてエイトを俯瞰した。まだ幾許の幼さを残す表情から見るに、彼も有名な神話については一応耳にしたことはあるのだと察する。
 空を飛んだという青年イカロスの話。遥か異国に伝わる神話か寓話の類か、獄中にあった彼は集めた鳥の羽根を蝋で固めて翼を作り、父ダイダロスと共に空を飛んで牢獄より脱出したが、自由を得て舞い上がった彼は、太陽に近付いた為に翼を溶かし海に落ちたという。
 彼の物語を題材にした歌があるのをエイトは知っている。重力に縛られた人間の、自由な空へと飛び立つ希望を与える歌は、確か最後は明日へと生きる勇気を奮い立たせる歌詞になっていた。彼はククールの愛撫を受けながら、己もまた数日前までは牢に繋がれていた事を思い出し、やや苦い笑みを返して答えた。
「蝋で固めた鳥の翼なんかで飛べるのかな」
「まさか、」
 つい先日まで獄中にあった二人はその苛烈さをよく知っている。光の届かぬ深い地下には羽根を落とす鳥さえ寄らず、まして風呂にすら預かれぬ囚人の身に蝋など得られる筈もない。ルーラの呪文が使える二人は陰鬱に迫る低い天井を見上げながら、ただただ焦燥感を抱くのみだった。
「それにイカロスは勇気で飛んだんじゃない」
「どういうこと?」
「奴が空に解き放ったのは勇気じゃなく傲慢だ」
 ククールはエイトの乱れた着衣の下より露になった肌に指を滑らせ、その柔らかさと温かさを確かめるようになぞっていく。首筋から下腹へと真っ直ぐに降りていく指の腹の感触に身を震わせたエイトは、己の目の前で微笑するククールの端整な顔立ちに見つめられ、更に甘美な眩暈を呼び起された。
 形良い両唇が小さく動いて呟く様は、男とは思えぬ程美しく眩い。エイトは彼の低音を耳元に聞きながら、己を映す淡い藍の瞳に惚けてしまう。
「あれは神の定めた運命に逆らうと必ず罰を受けるって話だぜ」
 イカロスが翼を焼かれたのは太陽の怒りだ。
 彼は時の権力の犠牲になった俄の罪人(つみびと)であるが、その罪は空を得たことにあるではなく、太陽に近付いたことにあるとククールは思っている。
 大地に根付く人間が、空に浮かぶ太陽を仰ぐことはあっても、それに近付くことは罷り成らぬ。既に生きる為に必要な全てを神より授かって生まれた人間がそれ以上を求めるのは傲慢であると、礼節と節倹を規範とする修道院で学ばされた彼はよく知っていた。
「触れちゃいけないものに触れちまって、火傷したんだ」
 人は己の分を超えてはならない。
 そう言ってエイトの滑らかな肌を辿る指先に痛みが走ったのは、単なるククールの思い込みか。彼は穢れなき無垢な瞳で己の愛撫を受け止める恋人に自嘲的な微笑を浮かべると、そっと手を離して呟いた。
「この意味理解るか? 俺の太陽」
 
 
 
   赤く燃え立つ 太陽に
   ろうで固めた 鳥の羽根
   みるみるとけて まい散った
   つばさうばわれ イカロスは
   落ちて命を 失った
 
「勇気一つを友にして」片岡輝/作詞、越部信義/作曲
JASRAC090-4177-0/ISWCT- 101.574.501-2

 
 
 ククールは毎夜エイトを抱く度に身の焼かれる感触がした。初めはベッドでくゆる彼の四肢に昂ぶる熱の所為かと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
 これは触れてはならぬ人を抱いてしまった罪か罰か、それとも彼を本気で愛してしまった魂の痛みか。若し自分の背に翼が生えていたとしたら、官能に爪を立てるエイトに掻き毟られていただろう。ククールはやや汗を浮かべてしっとりとした肌を輝かせるエイトの肉体を屠りながら、何もない筈の背に疾走る熱い痛痒を享受していた。
「ククール、」
 そんな彼に何か気付いたのか、エイトはシーツを握っていた手を解いて彼の背に回すと、慰めるように撫でる。薄く筋肉を纏ったそこは、然して寒くないこの部屋で何処か震えているような気がした。
「でもさ、イカロスは飛べたよね」
「エイト」
 弾力のあるベッドに沈んでいたエイトは、咄嗟に起き上がって彼を抱き締める。線の細いククールの体躯に腕を回し、己の肌で包み温めるように身を寄せれば、一瞬驚きを見せた彼もまた腕を絡めて抱き締め返してくれた。
 腕の強さが心地良い。エイトはまるで母鳥を恋しがる雛のように縋りつくククールの銀糸の髪を梳きながら、宥めるように優しい口調で囁く。
「彼は太陽の温かさに触れられたんだ」
 自由の翼が溶ける程に。
 絵画も文学も左程造詣のないエイトには、ククールがこの寓話にどのような想いを抱いているかは理解らない。エイトの中でイカロスはやはり勇気の人であり、空に憧れる者に夢を与える存在であることには変わりなかった。
「それって凄い事じゃない?」
……エイト」
 耳元に届いた穏やかな声に、ククールの震えが止まる。
 今眼前で微笑む太陽は触れる者を焼こうとはしないらしい。彼はただ優しく、包み込むように己を温め迎え入れてくれるのだ。
 ククールは彼を抱く腕を強くして、その温もりを逃さぬよう胸元に押し付ける。
「やっぱお前は眩しいな」
 胸がチリリと痛んだのは、何も罪の意識の所為じゃない。火傷に似た痛みはしかし狂おしいほど心地よく、燻るように胸中を擽っていく。ククールはエイトが背中を何度も擦るのを感じながら、己の背に蝋の翼のないことを反芻して安堵の溜息を吐いた。
「なぁエイト」
 そうして互いに腕を絡めて暫し抱き合っていると、ククールはその進展のない空間に堪らず苦笑して言った。
「お喋りは悪くないんだが、そろそろこっちに専念しようぜ?」
 甘い沈黙を名残惜しそうに破り、その耽美なまでの花顔に極上の笑みを湛えてエイトを覗き込む。
「はいはい、再開再開」
「えっ、なに? ちょ、え!?」
 ククールはキョトンとした表情を見せるエイトの鼻頭に不意打ちのキスを落とし、彼を再びベッドの弾力へと誘い込んで官能の海へと連れて行った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 近付けば近付くほど温かく照らしてくれる太陽。
 いつかこの身が焼かれ、海に堕ちようとも。
 
 
 
 
 
 
 嗚呼、火傷の傷は痛むか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【あとがき】
 
トロデ王の肖像画はすげー飾ってあると思うんです。
エイトはそれしか目に入っていない(笑)。
 
 
 
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