「あなた、まいご?」
トロデ王曰く、近頃はこの時期の女の子らしく「おませ」になった王女ミーティアは、まだ舌足らずな口調で小首を傾げながら少年に尋ねていた。
「おうちはどこ?」
城内では傅く臣下しか見ることのない彼女は、自分と同じくらいの子どもと話すことなど滅多にない。ミーティアは感情の掴めぬぼうっとした表情で目の前に立つ少年を好奇に満ちた大きな瞳に映しながら、今度は首だけでなく身体をも傾げて聞いてみる。
「どこから来たの?」
わからない、と表情で語る彼の返事を待たずに質問を重ねるのは幼さ故か。ミーティアは可愛らしい瞳を神妙に曇らせて次々に問いかける。
「おしろに来たの?」
「おかあさまは? おとうさまは?」
パッチリと開いた瞳がまじまじと少年を見つめ、彼が疑問符を浮かべながらたじたじになるのも構わない。ミーティアは少年の閉口が自分の質問攻めによるものだとはまるで気付かないようだ。
「なんにも分からないの?」
矢継ぎ早に尋ねる少女に少年がようやく追いついてコックリと肯いた時、ミーティアは「まぁ」と何とも難儀そうな顔を作って彼の手を引いた。
「やっぱりまいごなのね。たいへんだわ」
立ち止まったままの彼をグイグイと引っ張るミーティアは、ただ誰かの世話を焼きたいという年頃故の我儘心からではない。同じく迷子になった経験のある彼女は、限りなく無垢な善意によって少年を居城に迎えようとしていた。
「おしろにいらっしゃい」
ニッコリと微笑むミーティアの花のような可愛らしさが少年の瞳に飛び込む。
「ミーティア、おとうさまとおかあさまが見つかるまで、いっしょに居てあげます」
だから平気。大丈夫。
そう言って優しく手を引くミーティアに、少年はその手をギュッと握り返して応えた。彼はミーティアと会うまでずっと踏み止まっていた足を出し、トロデーン城へと向かう小坂への一歩を踏み出した。
そうして彼女の手に引かれて城門をくぐった少年は、両親が見つかるまでの間にこの城で小間使いとなり、厩番となり、舎人となり、気付けば近衛兵になっていた。
まいごの まいごの こねこちゃん。
あなたのおうちは どこですか?
「そして今は近衛隊長じゃ」
玉座に肘をついたトロデ王は、エイトの肩書を確認するように彼に言う。
「まったく、近衛兵は何をしていたのやら」
「いや、ミーティアの監視の眼が甘かったのは女中頭の問題としよう。それに城を抜け出したミーティアが迷子になったのは本人の責任じゃ」
「警備体制を万全にすべきですな」
「大臣。警備を強化されると其方が困るのではあるまいか? 特に夜……」
「いっ、いやいやいやいやいや! そんなことは」
「してエイトよ。その迷子を探し出し、城まで無事に帰す役目はお前にある」
「はい」
トロデ王は頻りに近衛兵の警邏の失態を口にする大臣を隣に制すると、目の前で跪くエイトにそう言って外出許可を取り付けた。王女が城を抜け出しただけでなく、帰ってこないという非常事態に、彼女の部屋周辺を巡回していた近衛兵は顔を真っ青にさせていたが、旅の装束に着替えたエイトは彼の肩を軽く叩いて励ますと、あっという間に飛んで消えてしまった。
「うむ、相変わらず早いのー」
ルーラの光筋を残す空を窓より眺め、トロデ王は「流石は我が自慢の臣下」と得意気に座りなおす。
「粗方見当がついておるのか」
叱責を免れただけでなく、第一の家臣の座を奪われつつある大臣こそ隣でキィと歯噛みしているが、この城一番の腕前を持つ彼が、トロデーン国、いや他国を凌駕して天下一を名乗るに足る英雄であることは既知の事実。
トロデ王は迷わずある一方向へと飛び立ったエイトの残像に微笑しながら、今日も変わらぬ平和であると大きな欠伸をした。
「こっちよ」
王女付の女中頭は、彼女が一体いつの間に外に出たのか世話係の小間使いを呼びつけて責を問うつもりであったが、ミーティアが見知らぬ少年の手を引いて部屋に入る姿を見た矢先、驚き慌てる対象を変えてしまう。
「姫! そちらの方は、」
「おともだちです」
彼女はサラリと答えて部屋に入り、突然の出来事に言葉を失った女中頭はとにかく大臣に報告をと廊下を足早に歩いていった。
部屋の外が俄かに慌しくなるのを余所に、ミーティアは少年を深い弾力のあるソファに案内すると、暖炉の上に置いた小箱を一生懸命背伸びして取り、いそいそと彼の前に差し出す。
見慣れぬ豪奢な部屋に招かれた彼は、腰掛けたソファの得も言われぬ柔らかさに緊張して身を硬くさせながら、嬉々として尋ねてくるミーティアの表情を呆けるように窺っていた。
「クッキーはすき?」
幼い彼女にとっては小箱とも言えぬそれを抱えながら堅く施された封を開けるのは難しい。ミーティアがたどたどしい動作ながらにようやく上蓋を除けば、中からは芳しい甘い香りが立ち込めて二人の鼻腔を擽った。様々な色と形のクッキーを押し込めた小箱は、少年の瞳を忽ち射止める。
香りたつ甘さにつられて彼がコクンと頷くと、ミーティアは嬉しくなって箱の中の一番を差し出していた。
「ミーティア、これがすきなの」
手渡したお気に入りを少年が黙って口に運ぶ。サクリと音を立てて一口、二口と食べる様に拍車がかかったのか、ミーティアは部屋を駆けて更なる一箱を彼の前に持ち出してきた。
「チョコレートもあるのよ」
それは普段なら教育係の侍女の許可なく開けることは禁じられている秘密のもの。勉強や善行のご褒美として彼女がくれるものであったが、箱の隠し場所を知っていたミーティアは目の前の少年にそれを差し出していた。
「おいしい?」
次々に手渡されてはそう尋ねられる。少年は小さな掌をお菓子でいっぱいにしながら、彼女の満面の笑みにコクンと頷いて返した。
口数が少なく、決して愛嬌のある風ではない。しかし不思議と愛着の湧く表情に何故か魅かれてしまう。
少年の曇りない鳶色の瞳がミーティアを見つめると、瞳を合わせた彼女はポッと頬を染めながら尋ねた。
「あなた、おなまえは?」
彼は胸をドキドキさせながら返事を待つミーティアに、ゆっくりと、そして確りと唇を動かす。
「エイト」
初めて少年が口を開いた。ミーティアは初めてその声を聞いた。
その瞬間の彼の表情を見た彼女は、まるで矢か電撃に心臓を貫かれたように惚けてしまう。
「……エイト」
「うん」
「エイトっていうのね!」
ミーティアの頬がみるみるうちに紅潮していく。
「すてきなおなまえね、エイト」
彼女が胸を躍らせて何度もその名を呼ぶと、エイトはちょっと照れたような顔で頷いた後に俯いてしまった。それでも嬉しそうに口元を綻ばせているのは、目の前の彼女に恥かんでいるからか。
そうしてエイトが緊張のうちに照れて口を噤んでいると、ミーティアはそんな彼を知ってか知らずか、最初に出会った時の質問攻めをもう一度繰り返し始めた。
「ねぇエイト、おかしはすき?」
「うん」
「じゃあキャンディーもすきかしら?」
「うん」
何気ない質問を繰り返しては、それに「うん」と答えて頷くエイトを見てニッコリと破顔する。
ミーティアにとっては彼の然して感情の乗らぬ無垢な容顔が堪らないようで、質問を投げかける度にやや反応するエイトに好奇心をそそられていた。
「ねこはすき?」
「うん」
「いぬは?」
「……ちょっとこわい」
そして彼が戸惑いがちに微笑する瞬間は尚更のこと。
これまでと違う答えを聞いたミーティアは、ソファにちょこんと掛けた彼に身を乗り出して言っていた。
「まぁ、ミーティアもよ。いっしょね!」
まだ恋も知らぬ幼い王女は、少年の恥かんだ佳顔に胸を弾ませながら、花の開いたような美しい笑みを乗せて笑った。
貴方の事をもっと知りたくて。
仲良しになりたくて。
そして
私の事、好きになって欲しくって。
「うふふ、私ったら」
葉もたわわに生い茂らせる深い森を歩き、丁度よい切り株を見つけたミーティアは、「ごめんなさい」と断ってそこに腰を落ち着かせると、嘗てこのような森でエイトと迷子になった記憶を蘇らせていた。
「出会った時からエイトを困らせていたんだわ」
フゥ、と短い溜息を吐いて柳眉を顰める。
自分が此処でこうしている以上、近衛隊長である彼が責を取って自分を探しに出ることは予想がついていた。
「今度こそ謝らなくちゃ」
本人の居らぬ所で「迷子」と決められていたミーティアは案の定迷子なり、こうして森に佇んでいる。
エイトが初めて城に来た日を明日に控え、記念日を祝おうと花を摘みに出かけたきり、ミーティアは踏み入れた森で引き返す道を失った。森と言わず、あらゆる場所で何度か同じ経験をしているからか、彼女は左程うろたえることなく疲れた足を休め、籠一杯になった花を手に冠を作り出す。
エイトの分だけでなく、父王や城爺、侍女達の分……と次々に手を動かしながら思いを巡らせていると、今から十数年間、彼と初めて出会った時の事が鮮やかに蘇ってきた。
(多分、出会った時から好きになってしまっていたのね)
幼き頃の自分に思わず苦笑が零れる。興味の湧くままにエイトを質問攻めにしていた、まるで子供だった自分。まだ「好き」という感情を知らぬ未発達な自分が好意を示す唯一の表現だったのかもしれない。
「でも、あの時本当に聞きたかったのは――」
「ミーティア」
丁度作り終えた花冠を膝元に置いた時、木々の陰から己の名を呼ぶ声がした。
「見つけた。迷子姫」
「エイト」
顔を上げて見れば、冒険の頃に見慣れた旅人の服に身を包んだエイトその人。
「いつの間に、」
「じゃあ僕からも質問」
今の独り言を聞かれていたのだろうか、エイトは切り株に腰掛けたミーティアに近付くまでに微笑しながらそう言うと、彼の肩に掛けた鞄の中から小さな包みを取り出して彼女に差し出していた。
「クッキーは好き?」
包みを開けた中には甘い香りを放つクッキーが数枚。
ミーティアが瞳を大きくさせてそれを見ると、エイトは笑って次の小包を鞄から取り出していた。
「チョコレートは」
「大好きよ」
ミーティアの両手にそっとチョコレートの包みを渡すと、はにかんだ彼らしい微笑を浮かべたエイトは、まるで嘗ての問答を真似るように次々と問い始める。
「甘いものは?」
「はい」
「じゃあキャンディーも」
エイトが笑ってポケットの中からキャンディーを取り出すと、花冠で一杯になったミーティアの膝上に飾るように「はい」とそれを並べた。色を加えて華やかになった膝元は、昔彼と「お店屋さんごっこ」をしたことを思い出させる。ミーティアは嬉しくなって次の質問を待った。
「猫は好き?」
「えぇ」
「犬は」
「……今でも苦手だわ」
二人、顔を見合わせてクスリと笑う。
他愛ない問答は何一つ褪せず、今もお互いの心を甘く擽るらしい。
「ねぇエイト。私からもひとつだけ」
ミーティアは先程考えていた事を巡らせると、一息の間を置いてゆっくりと口を開いた。
(初めて会った時から、ずっと聞きたかったことを)
今も変わらぬ表情を見せるエイトは、しかしその魅力を更に強くして己を惹きつける。未だ彼を前にすると胸の高揚を隠せないミーティアは、戸惑いがちに瞳を伏せながら、ほんのりと頬を染めた後でそっと上目に尋ねた。
「私の事は好きですか?」
ずっと聞きたかったことを聞いてみたいのです。
昔は不安で聞けなかった、でも、ずっと聞きたかったこと。
約束されている返事を期待するのは狡猾いかしら?
「、」
聞いたエイトは昔と左程変わらぬ童顔に少し驚きの色を見せ、悪戯っぽく微笑したミーティアに優しい瞳を注ぐと、彼もまた仄かに頬を赤らめて口を開く。
彼らしい恥かみと共に返された「答え」に、ミーティアはとても嬉しそうに微笑んだ。
迷子の迷子の子猫(キティ)ちゃん。
本当に聞きたいのは、あなたのお家の場所でなく。
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