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翼があれば、と思った。
馬鹿な。
翼など。
ルーラという移動呪文を覚えているというのに、ミーティアを抱えて落下する己の思考は今の状況を打開するに非現実的な欲望を真っ先に思い浮かべていたのか。エイトは意識の途切れる寸前にそのような事を考えていた。
(馬鹿だ)
冒険の頃にトロデ王が「癒しの地」としていたのが三角谷。人間と魔物とエルフとが種族を超えて共生するこの秘境へは、人界との隔たりを強く感じさせる吊橋を渡らなくてはならないのだが、此処一帯に生息するゴクラクチョウが谷の人間ではない「余所者」を、その縄張り本能故に排除しようと攻撃を仕掛けてくることは予想できた事だった。杖を巡る冒険をしていた頃なら、空からの急襲に対しても十分な警戒心を持っていただろう。
しかし何を浮かれていたのか、ミーティアとこの地を訪れた今は、吊橋を恐る恐る渡る彼女に注意を取られて日差し除けの鍔広帽子が鳥目を惹いていたことに気付かなかった。頭上から威嚇するモンスターに驚いてバランスを崩したミーティアに、エイトは「危ない」という言葉を出すよりも早く足を蹴り出して手を伸ばしていた。
目の前の敵を倒すことよりも先に彼女を守ろうと身体が反射したのは悪くない。が、しかし。
(本当に馬鹿だ)
彼女しか見ていなかった自分は、その危機にあってすら彼女しか見えていなかったのだ。
ミーティアを抱えたエイトが吊橋下の谷底に落ちるまでの時間は、一体どれ位だっただろう。ゴクラクチョウ程度の魔物の攻撃を回避する術も、吊橋という不安定な場所から彼女を守る術も、落下していく刹那それらは後悔と化して脳裏を駆け巡り、その後地面に叩きつけられる痛みとなって己の体内を押し潰した。
(……あぁ、)
先程まで近くにあったと思った空が遠い。
深い森に茂る木々の枝と背の高い草の弾力で落下の衝撃をある程度は免れたエイトは、腕に強く包んだミーティアの確かな心音を聞くと、そのまま意識を遠くした。
貴女を守れない僕など。
穏やかな川のせせらぎが聞こえる。
聴覚を擽られたミーティアが大きな瞳をうっすらと開いた時、目の前にはエイトが静やかに横たわっていた。
「……エイト?」
間近に見るその表情と、確りと抱きとめられた腕の強さに頬を赤らめたのは一瞬のこと。
「エイト!」
意識を失う直前の状況を思い出したミーティアは、創痍のエイトを見て直ぐに顔が青ざめる。
「……!」
彼は吊橋から落ちた自分を守ってこうなった。
見上げれば遥か頭上に吊橋。あの高さから己を庇って落ちたというなら、身体が無事である筈がない。ミーティアは必死に彼の名を呼んで安否を確かめようとしたが、応答もなく頬面を青白くさせる様子に背筋を凍らせた。
「エイト、エイト」
まるで祈るような声で呼ぶ。
ミーティアは意識だけでも揺り起こそうと縋るように彼の肩に触れれば、滲むような声が漏れてエイトの眉が歪んだ。
「、……怪我を……」
辛うじて痛みには反応するものの昏睡が続いている。エイトの険しい表情を見たミーティアは「生きている」という安堵も直ぐに去り、意識の戻らぬまま激痛に襲われる彼の身を案じた。
「エイト」
どうしたら良いのだろう。
ミーティアは瞳を震わせながら、問うように名を呼んでいた。
「エイト、エイト」
しかし深く目蓋を閉じた彼からは返事もなく、ミーティアは不安ばかりを募らせながら、何も出来ない自分に打ちのめされる。
「エイト」
呼び続けることで意識が戻ったとしても、谷底に落ちた此処から彼をどうやって運べばいい? 神鳥の加護もなければ移動呪文も使えない自分が、ただただ彼の名を反芻する姿は惨めに思えた。
先程肩口に手を置いたことで、エイトが肩を傷めていることには気付いている。しかしそれ以上触れて良いか分からない。戸惑う指先は彼の眼前で空を泳ぐと、震えるように戻って自身の胸元でギュッと握られた。
「あぁ、どうしたら」
エイトを兄貴と呼び慕うヤンガスのような逞しい力があれば、傷負う彼を軽々と抱えて運べただろうに。若しかククールのように回復魔法が使えたなら、あらゆる呪文を唱えて彼を癒しただろう。
「……どうしたら、」
またはゼシカのように強力な魔法が使えていれば、このような事態にはならなかったかもしれない。今ここに居る者が自分でさえなければ、誰よりも強いエイトは怪我を負うことなく、また仲間の支えによっていくらでも助かっていただろう。
「エイト、」
せめて呪われた馬のままであったなら、彼を背に乗せて運べたというのに。ミーティアは高くなった空を仰いで、何も出来ない自分を呪った。
(あぁ私はこんなにも無力で)
「……う、……」
「エイト!」
その時、エイトの開かれた唇から微かに声が漏れる。
見れば強く打ちつけた肩が熱をもって脹れはじめたらしく、エイトは昏睡の中で額に汗を浮かばせながら猛毒にも似た高熱に魘されているようだった。
「エイト、まさか骨を折って……」
熱い。
ミーティアは躊躇していた手を、今度は迷わず差し出して彼の肩口に触れれば、大きく腫れ上がったそこは信じられぬほど熱かった。半開きの唇から悶えるような呼吸を切れ切れに吐いており、熱を伴った痛みは全身を駆け巡ってエイトを苦しめている。
「……あぁ、エイト……」
ミーティアは力なく地に投げ出された彼の手を取って大きな瞳を潤ませた。弱々しく握り返されたのは彼の意思ではなく反射的なものかもしれないが、ミーティアはその弱さに益々不安になって声を震わせる。
「……っは……」
「エイト、苦しいですか」
ミーティアはエイトの手を強く握って言った。
「ミーティア、お水を取ってまいります」
確か水の音が聞こえた。吊橋があるくらいなのだから、近くに川が流れているのは間違いない。
ミーティアはもう一度彼の手を胸元に近付けてギュッと握ると、その手をそっと置いて森を走った。
貴方を守れない私なんて。
ドレスの生地すら簡単に裂けぬ自分に苛立った。擦り傷にすら怖がって触れられぬ自分がもどかしかった。ミーティアはエイトの額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながら、肩口に置いた布の湿り気が直ぐになくなっていくのに唇を噛む。
「エイト」
ミーティアはエイトが旅の頃に水筒を持ち歩いていたことを覚えていた。自分達が落ちた傍に投げ出されていた袋の中にそれを見つけると、彼女はドレスの裾が汚れるのも構わず川に脚を入れて何度も水を汲み上げ、エイトの傷ついた患部を冷やし続けた。
「エイト」
彼はまだ譫言を呟いて苦しげな呼吸を漏らし続けている。既に唇は乾いて擦れており、今や額の汗どころか全身に脂汗をかいて水を欲しがっているようだった。
「これを、お水を飲んで下さい」
ミーティアは彼の首を傾けて水筒の注ぎ口を彼に傾けたが、彼は全身が渇望しているそれを口元まで含んでも咽喉を動かして流そうとしない。彼は舌と唇を濡らした後、力なく開いた口端より水を漏らして再び苦痛の表情を浮かべた。
「飲んで、エイト。飲まないと」
今しがた汲んできた水が咽喉元を空しく伝う。それを見たミーティアは苦悶に顔を歪めたままのエイトに「どうか」と祈ると、水筒の水を自ら口に含んで彼に与えた。
(エイト)
少しずつ、少しずつでいい。
ミーティアは彼の重くなった四肢を支え、首の後ろに手を回しながら咽喉奥の通りをよくすると、彼の渇いた唇を湿らせるように唇を押し当て、熱染みた吐息を苦しげに漏らす咥内をまるで宥めるように水を届ける。
コクン、と僅かに咽喉を動かし体内を潤していく彼を見つめながら、ミーティアは水筒の水を更に口に含んだ。
(あぁどうか)
彼の力ない手を握る。ミーティアは心の中で何度も彼を呼びながら懸命に祈った。
熱い、痛い。
全身を巡る苦痛に魘されていたら、不意に身体が軽くなった。
涙に似た優しい液体が体内に溶けて、
僕の苦しさも悔しさもなくしてしまった。
「……エイト!」
ゆっくりと目蓋を開けてみれば、三角谷の泊まり慣れたベッドの上だと気付く。
目の前には己の覚醒を待ちわびたように覗きこんでいたエルフのラジュとギガンテス、そして、命を賭しても守ろうとした愛しい人。
「ミーティア」
「エイト!」
この瞬間を迎える直前までどんなに不安だったのだろうか、己と瞳を合わせて漸く安堵の破顔を見せたミーティアが居た。彼女の表情から意識を失うまでの記憶を次第に蘇らせたエイトは、恥かみながらベッドより身を起こして向き合う。
一度結んだ唇をゆっくりと開き、エイトはミーティアの表情を窺うように言った。
「怪我はない?」
咄嗟に出たのは彼女の無事を気遣う言葉。
エイトが目覚めるまで見守っていた周囲の者達は、その第一声に思わず閉口した。
「エイト、貴方の方こそ大丈夫ですか」
右の鎖骨から肩までの骨が折れているのですよ、と不安と呆気に取られた面持ちで話すラジュの台詞で漸く本人がその痛みに気付く。
「あぁ……、それで」
聞いたエイトはベッドで半身を起こしたまま、確かめるように自身の右肩に触れた。道理で痛い訳だと苦笑する彼にラジュが呆れて首を竦める。頑丈な身体は良い事だが、些か感覚に関しては頑丈というより鈍感なのか。ラジュは気の抜けたような溜息を一つ吐くと、身を起こしたエイトをもう一度ベッドに沈めた。
「いくら世界を救った勇者でも傷負うことはあります。まだ骨は折れたままなのですから、熱が完璧に下がるまで此処でお休みなさい」
「熱はもう、」
「いけません」
ラジュの優しいが強い口調は、流石に長年この地を守り育んできた貫禄がある。抗い難い母性にベッドへと押し込まれたエイトは、ミーティアの花顔を窺いながら沈んでいったが、その様子を見ていたラジュはにこやかに笑って言い聞かせる。
「さぁ大人しくして。彼女に看病して頂くと良いですわ」
「、」
「大切な人に大切にされるのも悪くありませんよ」
今だけなのだから。
柔らかな笑みを浮かべたラジュがそう言って二人を見ると、瞳を合わせたエイトとミーティアはお互いの頬をほんのりと桃色に染めて戸惑った。
(あら初々しいこと)
ラジュは照れ合う二人にクスリと微笑し、尚エイトに告げる。
「ミーティアさんは貴方が目覚めるまで一生懸命に看病してくださったのです。本当に」
「そうだォ! ドラドラドラッキュー!」
「ドラング、」
ラジュの隣に控えていたドラキーのドラングが言う事には、彼が昼の散歩に谷川を飛んでいる時にエイトを必死に手当てするミーティアの姿を見かけたらしい。彼女が三角谷の人間でないと理解っていたドラングは、モンスターである自分が声を掛けては彼女を驚かせてしまうかと思ったのに、自分の姿を捉えたミーティアは、開口一声「助けてください!」とお願いしたという。
「オイラもビックリしたォ!」
モンスターに助けを求めるなんて。
小さな羽根をパタパタとさせて語るドラングの話を聞きながら、エイトは驚いた表情でミーティアを見ていた。
「あのっ、あの時はもう必死で……でも、本当に助かりましたわ」
「オイラ、やくにたったォ!」
「ありがとうございます、ドラングさん」
もじもじと顔を赤らめながらも、ペコリと律儀にお礼をするミーティア。モンスターと会話をする事にすら緊張しているようだ。
「………………」
エイトはミーティアとドラングのやりとりを眺めながら、彼女がどんな表情で一見普通のドラキーと変わらない彼に縋ったのか考える。ドラキーはおろか蝙蝠にすら怯えていたミーティアが、一体どんな気持ちで。
「ミーティア、」
エイトは感謝以上の気持ちをどうにか伝えられないかと咄嗟に身を乗り出して口を開いたが、これに気付いたミーティアは慌ててエイトをベッドに押し戻した。
「エイトったら。ちゃんと寝てないと」
「でも、」
いくら弱っていようと彼女の力に勝てぬエイトではない。しかし、
「ね?」
まるで子供をあやすような柔らかい笑顔を見せられては抵抗の欠片も奪われてしまう。
「………………うん」
惚れているのだから仕方ない。結局は彼女に負けるのだ。
エイトはミーティアの花のような佳顔に胸をドキドキと高揚させながら、大人しくシーツに収まった。
「お大事に」
ラジュはもぞもぞと埋まっていく大地の救世主にニッコリと笑みを注ぎながら、「お邪魔にならないように」と三角谷の仲間を連れ立って部屋を去る。ミーティアはドラングをはじめとするモンスター達に何度も感謝の手を振って見送った。
そうして扉が閉まるのを二人で確認すると、暫くの沈黙のうちにミーティアがベッドの方へと振り返って切り出す。
「エイト、リンゴさんでも食べませんか?」
「え?」
彼女が嬉しそうに話すのには理由がある。
ミーティアが見せた果物のバスケットは、不安な面持ちでエイトのベッドに張り付いたまま見守っていた彼女にラジュがそっと手渡したもの。何も出来ない自分を強く責めていたミーティアを励まそうと、ラジュは努めて笑顔で言っていた。「想い人が目覚めた時に何でも出来るように」と。
「可愛らしいウサギの形になるんです。ラジュさんに教えて貰いました」
ミーティアは大きな瞳を嬉しそうに輝かせて続ける。
「あと、包帯の巻き方や着替えの仕方も習いました」
「き、着替え」
「ミーティア、エイトのお役に立ちたいのです」
何かしたい。何でもしたい。
真っ赤なリンゴを両手に持って言うミーティアは儚く健気で、エイトは己の胸が締められたのは決して骨折による呼吸困難ではないと思った。
「……ミーティア」
あぁ、とエイトは納得する。
昏睡の中、熱に犯されながら感じた不思議と穏やかで長閑なものは、目の前の彼女の想いだったのだ。焼けて枯れる咽喉を潤し、体内を心地よいもので潤してくれたのは、ミーティアの優しさだったのだ。
「ありがとう」
エイトはやや頬を染めながら、ミーティアの持つリンゴに視線を移して続ける。
「治るまで、その、……よろしく」
それは面倒を見てくれ、ということ。彼女の甲斐甲斐しい看病を受け入れることだ。
恥ずかしそうに口籠もりながらそうお願いしたエイトを見て、ミーティアもまた顔中を赤らめて「はい」と笑みを綻ばせていた。
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【あとがき】 |
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愛する人を守る手段は決してひとつじゃない。
つまりうささんリンゴは最強アイテムだということです(笑)。
もふもふさんにお捧げします。
リクエストありがとうございました☆
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