翼は飛び立つ為のもの。
籠の中の小鳥は、見果てぬ大空を夢見て羽ばたいた。
広げた翼に陽が差し込んで、眩い光に目が眩む。
ここに広がる世界の全てが貴女のもの。
サントハイムを旅立ったその時は、貴方のその背に翼が見えた。
「私にリレミトが出来たら、こんな事には……」
「言わないで。そんな事言ったら、私だって同じよ」
空城と化したサントハイムから、サランの夕闇へと消える鳥を眺めて思った。
鳥が飛ぶのは空が美しいからではない。
明日に向かって生きる為だ。
生きるに必要な糧を虚空より探している。
どうかその強い翼に、私を連れてください。
その翼が傷ついた時には、せめて癒して差し上げたい。
「それにしても寒いわ」
「姫様、これを」
「ありがとう」
悪夢より目覚め、ベッドの隣の椅子に眠る貴女を見て気付いた。
気付いたら、見守るつもりが見守られていた。
その柔らかな翼の中に包まれていた。
雌鶏が雛をその懐に抱くように、優しく、温められていた。
ツバサ。
ソレッタの洞窟にはお互いに良い思い出がない。
アリーナは此処で自らの無力を悟り、絶望の果てに彼の下へと重い足取りで戻ったし、クリフトは自身の不甲斐無さの為に、此処で彼女がどんなに苦労をしたかを知っている。
それでも彼らがこの洞窟へと足を踏み入れたのは、氷室の最深部に隠された更なる万病の薬を探し求めた為だった。
実はこのところ、ブライの調子が良くない。
高齢の魔術師は、青年の神官よりも覇気に満ち溢れ、誰もがその衰えを認識していなかった分、心配は大きい。そこで二人がソレッタ王より得た情報より、この洞窟の探索をかって出た。
アリーナは老齢の臣下を労わる優しさから、勇んでこの洞窟に挑んだものの、苦い思い出を強制的に呼び起こされる。奥へと進めば進むほど、複雑さと寒さが増す。悴む手を擦りながら、以前に見た空の宝箱を再び見つめ、そのままアリーナは無言で下層へと向かった。
そこには、魔物さえ居ない。
生命の棲む温度を超えているのかもしれない。クリフトはそう思った。
吐く息どころか、大気に触れる粘膜さえ凍りつく空間。喋ることすら億劫になってくる。それでも前へ前へと進む主君の背を見つめ、クリフトは後を追った。
かつて挑んだ、前人未踏の異世界へと繋がるダンジョンに比べれば、この洞窟など二人にとってはさしたる問題でもない。心の奥底でそう軽んじていた気持ちが、今の事態を引き起こしたのか。
「私にリレミトが出来たら、こんな事には……」
「言わないで。そんな事言ったら、私だって同じよ」
足元の氷が薄い。踏み応えが緩いと気付き、お互いにそれを伝えようと思った矢先の出来事だった。地盤が崩れた。
息を飲む間もなく、二人は地の底へと落下し、今は、遥か上に見える道を仰いでいる。アリーナが真っ白い溜息をした。
「それにしても、寒いわ」
「姫様、これを」
「ありがとう」
コートだけでは首元が寂しいのでは、とクリフトがマフラーを差し出した。受け取ったアリーナは、確りと首に巻いてマフラーに顔を埋める。
つくづくこの洞窟には嫌われたみたい、とアリーナは苦笑した。クリフトも申し訳なさそうに笑みを漏らす。
しかし、事態の深刻さ増すばかりだった。
陽が落ちたのだろう。張り詰めるような凍気が洞窟を満たし、疲れた身体に痛いくらい差し込む。冷気が洞窟を吹き抜け、低い呻り音になって木霊した。
引き返す道はおろか、進める道すら見当たらない、洞窟の窪。
遥か遠くに聞こえる水の滴り音を耳に、アリーナがポツリと言った。
「冗談じゃないわ、この寒さ……」
目の前に出口が見えるというのに、聳える氷崖が不可能を叩きつける。万策尽きるというよりも、当の始めになす術がないという残酷を悟らされる。
二人が出した結論は、「仲間の応援を待つ」という消極的な打開策。今の二人の装備・所持品から言えば、それも仕方なかった。
路頭に迷う幼子の如く、二人は憔悴する。
それから、どの位の時間が経ったか。
「姫様、寒くはありませんか」
「私は大丈夫。それよりクリフト、」
厚手の毛皮のコートを纏ったアリーナと比べ、旅の外套程度しか来ていないクリフトは、明らかに震えていた。
「私は構いません」
「クリフト、これ……」
「いいえ。どうかそのまま」
アリーナは不安げな瞳で首元のマフラーに手をかけたが、その手をクリフトが制する。アリーナがクリフトを上目に見つめた。
鼻先や頬が赤く凍えている。身体を縮めて、痩躯を更に細くしている。
彼が自分を何よりも優先する事は、十分に理解している。今もそうだ。彼は自分が寒いと言えば、その薄い外套すら差し出してくるだろう。アリーナはそう思って、成る丈「寒い」と言わないよう口を噤んだ。
それから、また時間だけが過ぎる。
あまりの寒さに空気が輝いている。研ぎ澄まされた大気が鋭く肌を刺し、服をすり抜けて体温を奪う。
「ねぇ……クリフト……本当に……」
堪りかねたアリーナが再び口を開いた。
「……」
クリフトの唇は、真っ青になって震えている。唇だけではない。彼の頬は血の気を失って凍えているし、しなやかな眉には霜が降りていた。
「……」
クリフトは暫く喋れなかった。口が開かないのか。
「クリフト」
心配そうにアリーナが彼を覗き込むと、クリフトは漸く唇を開く。
「……いいですか、姫様。必ず異変に気がついて、仲間の誰かが応援に来てくださるでしょう。その時は……」
色を無くした唇が片言に言葉を紡ぐのは、彼の歯が震えているからか。朦朧とした瞳は、長い睫毛に霜を煌めかせている。
「止めて、クリフト! そんな遺言みたいな事、言っちゃ駄目」
アリーナが瞳を大きくして叫んだ。
「いいえ、これは大切な事です」
言いながらクリフトは外套を脱いで、アリーナの肩に掛けて巻きつける。
「駄目よ! クリフトの方が震えてる……っ!」
「こういう時は体温の高い女性の方が持ち堪えられると聞きます」
クリフトは無心に続けた。
「姫様。どちらかが生き残り、内部のこの状態を伝えることが出来るならば、ここに来た事が無駄にはなりません。生存の確率から言えば、姫様の方が高い」
「いや、クリフト……」
「……」
クリフトはうっすらと開いた頼りない瞳で、洞窟を見回している。
「姫様をこのような目に遭わせてしまい、申し訳ありません……。いくらブライ様の為とはいえ、姫様ご自身が此処までなさらずとも、私だけで探索に来ていれば……私は……」
独り言のように呟いては黙り、また呟く。アリーナは彼の思考が弱ってきていることに危機感を感じた。
「……本当は貴女をお連れすべきではなかった……」
「クリフト、しっかりして。クリフト」
白を超えて、青ささえ見える頬。今や紫に変わった両唇が細かく震えている。
「……姫様、寒くはありませんか……?」
「クリフト」
アリーナが彼にしがみついて、朧げな瞳を見つめる。
「クリフト、いやだよ。確りして」
色を失った頬に手を当てて彼を擦ると、彼はうっすらと微笑んで見せた。アリーナは凍りつくような彼の肌の冷たさに胸がうち震え、大きな瞳を潤ませる。
どうしよう、と思った矢先、彼女は閃いて意を決する。
(クリフト、お願い)
そのまま、彼女は背伸びをしてクリフトに近付き、彼の震える唇を包み込むように口付けた。
「……」
なんて冷たい唇。細かく震えて凍える紫の唇。
「姫、様……」
しかし、クリフトが状況を把握しはじめると、その震えは止まった。
彼は驚きに瞳を見開いてアリーナを見つめる。
「……」
「どちらかが死ぬとか、生き残ったらとか言わないで」
朦朧とした意識をどうにか取り戻し、今や正常を越えて動揺すら見せているクリフトの顔を、アリーナは真剣に見つめていた。
「私たちは必ず二人で生き残る」
アリーナはそう言って大きく息を吐くと、一気に毛皮のコートを脱ぎ捨て、手早く服を脱ぎだした。
「ひ、姫様……?」
未だ彼女の行動を理解しかねるクリフトの服も素早く脱がせる。アリーナは無心になって彼の服に手をかけていた。彼の肌着が見えると、さっとその肌に潜り込み、再び彼の外套で二人を包んで、毛皮のコートを互いに確りと巻きつけた。
外気の瞬くほどの冷気が差し込む時間はそこになかった。
もしくはクリフトが呆然として彼女の行動を見ていたせいで、「寒い」という時間を感じなかったのかもしれない。
クリフトは我に返って冷静に考え出す。
(……姫様は今、何をなされた?)
確か、私の唇に。
今、己の胸元には何とも柔らかい温もりがあって、背中の方まで届いている。しっとりと吸い付くが如くきめ細やかな白肌が、己を優しく抱いている。そして頼りない肌着の奥より、彼女の膨らみを感じる。
己の肌と彼女のそれが、今まさに触れ合っているのだと気付いた瞬間、クリフトはあまりの事態に目眩がした。
「姫様……」
こんなにも彼女が近い。いや、それよりも。己の肌が彼女に触れている。
クリフトは凍えて動かなくなっていた腕をどうすれば良いものかと戸惑いのうちに遊ばせていた。
「……本当はね、恥ずかしいよ」
心騒がせるクリフトを知ってか知らずか、アリーナはクリフトの胸に埋まりながら呟いた。
「もっとマーニャ姐様みたいな大人の体になってから、クリフトに見せたかった」
「姫様」
「ほら、ね? あんまりお胸もないでしょ?」
「そ、そんな事は」
そんな事はない。
現に彼は今、己の胸より感じる彼女の膨らみを恐ろしいほど敏感に感じ取っているし、それに混乱しそうなほど惑わされている。それは彼女の恥らう大きさなどといった問題の範疇ではなくて。
心臓が激しく鼓動を打つ。疾走るように早く、大きく鳴っている。
「あぁ……クリフトの心臓の音が聞こえる」
アリーナはよかった、と安心してそこに耳を寄せたが、クリフトは高揚する脈動の故を問われそうで、慌てて口を噤んだ。
「……ほっとする……」
アリーナが可愛らしい微笑を見せる。己の胸中でほころぶその顔は、見事なまでに艶やかで美しく、寒さとは違った、ゾクリとしたものがクリフトの背を走り抜けた。
「姫様、寒くはありませんか」
寒さを口実に、クリフトは遊んでいた手をアリーナの身体に回す契機を掴む。その細い腰は、すぐに己の傍にぴっとりと収まった。
「うん……平気……」
クリフトは、胸元から擽るような呼気で伝わる彼女の声に心を騒がせる。アリーナは、彼の胸から直に聞こえる声を耳にして、普段より更に低い彼の優しい声に胸を高鳴らせた。
そのせいかは判らないが、互いの体温で二人は次第に温かくなってくる。
「……ね……あったかいね……」
「……はい」
上擦った緊張の声も、相手に届けば甘さに変わる。
「眠っちゃ駄目だよ、死んじゃうから」
「はい」
「……クリフトって、……結構……細くないんだね」
「そ、そうですか?」
「うん。ちょっと驚き」
きっと、冷気はすぐ傍に居る。いや、今でも我が身を凍らせようと間近で伺っているに違いない。
しかし二人には全くの寒さなどなく、凍えもない。言い知れようのない温もりと穏やかさに見守られ、柔らかい熱に包まれている。
冷静さを見せる会話もどこか夢心地の感触がして、甘い言葉のやり取りに身が擽られる。伝わる体温に、どこまでも安心してしまう。
「ね、クリフト。大丈夫だからね」
突然、声色をおとしたアリーナがポツリと言った。
「絶対、私達はどうにかなるから」
背中に回された小さな手が、ギュッと強く己を締める。
「姫様……」
そう。今の言葉は自分に言った言葉ではない。彼女自身が己を奮い立たせる為に反芻した言葉だ。信念の折れぬよう、勇気の灯火が消えぬよう。
「はい。大丈夫です」
クリフトはそう理解してアリーナに同様に返す。
力強く彼女を抱き締めた。身を屈めてアリーナの細い身体に被さって、丁寧に包み込み、慈しみ、抱いた。
貴方の翼に包まれる。
温かくて、柔らかくて。
そっと寄せられた透き通る肌が、こんなにも愛おしい。
はてしなく強く、優しい貴女の翼。
きっと守ってみせる。
きっと、きっと。
「……」
気付けばアリーナは、彼の胸の中ではなく、弾力のあるベッドの上にいた。見たことのある天井。そう、ここは洞窟へ赴く前に宿泊していた宿。
「、クリフト?」
「まだ起き上がらないでください」
彼の感触を思い出して、不安げに名前を呼ぶ。すると、ベッドの隣から長閑な声が聞こえてきた。
「あぁ、まだ指先が凍えていますね」
クリフトは枕元の椅子に腰掛け、彼女を見守っていたらしい。上掛けから少し出たアリーナの小さな手に視線を移し、それを静かに取る。凍瘡の残る指先を切なげに見つめ、「ホイミ」と呟いてそれを癒した。
アリーナは大きな彼の掌に包まれながら、伏し目に己の手を癒す彼の瞳を見つめている。
「……あの洞窟から……」
クリフトはアリーナの手を包み、黙っていた。
「帰ってこれたの……?」
仲間が助けに来てくれたのだろうか。一瞬、アリーナはそう思ったが、直感が「違う」と言っていた。もし彼らが救援に来てくれたならば、皆でアリーナとクリフトを囲んで、その目覚めを待ってくれたに違いない。
今、この部屋に居るのは、いつも通りの朗らかな笑みを湛えたクリフトしか居ない。
そして視線を移し、アリーナは目を瞬いた。
ベッド脇の鏡台には、洞窟に求めた万病の薬草が束になって置いてある。
「ねぇ……それ……」
「休みましたら、ブライ様にお届けにあがりましょう」
「……クリフト……」
彼の言葉がなくとも、その控えめな笑顔でアリーナは全てを知った。
クリフトはあの氷崖の窪から自力で帰ってきたのだ。己を抱えて。そして洞窟から目的の薬草を探し、ここまで戻ってきたのだ。
「……」
どこをどうして、どうやって洞窟の底から脱出し、かつ薬草を手に入れたのだろうか。憔悴した、悴んだ身体で、どうやって。
「クリフト……!」
アリーナはベッドより起き上がり、勢いのままにクリフトの懐へ飛び込んでいた。彼は優しく抱きとめる。
「一人で……どうやって……?」
凍えと疲れの中にあって、己を背負い、彼は如何にその後ここまで辿り着いたというのか。計り知れない労苦がそこにあった筈なのに、そうとは言わないクリフトに、アリーナは胸が詰まった。
「……ごめん……」
口より出たのは謝罪の言葉だった。彼の性格が全てを言わせないでいる。その底知れない優しさに言葉が見つからない。貴方の心に、ただ、謝りたい。
「いいえ、謝らなくてはならないのは私の方です」
胸元にしがみつくアリーナを穏やかに見つめて、クリフトは静かに言った。
「貴女を、あんな危険な目に遭わせてしまった。辛い思いをした場所で、再び貴女を傷つけてしまった」
「そんなこと、」
「あの洞窟で、再び貴女に悲しい思いをさせてしまった」
クリフトは自分がどんな過酷に耐え忍んでも、アリーナには一切の心の傷を負って欲しくなかった。嘗て彼女が自分の為にあの洞窟へと踏み込み、寒さと喪失感に身を打たれた辛い思い出を、もう一度思い出させるような事は。
「私自身の未熟さ故に、姫様にご迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした」
「違うよ、クリフト」
アリーナは彼の胸元で首を振った。彼は更に続ける。
「それに、」
クリフトはアリーナを腕に抱いたまま、頬を染めて口ごもった。
「貴女の、身体を……その……」
主君の裸を見たどころか、触れてしまった。自らの肌と触れ合って、体温を感じてしまった。
「本当に、何と言ってお詫びすれば良いか……」
アリーナは戸惑い赤面するクリフトを見て、自らも思い出す。
「私はいいの、」
思いつめて追い込むクリフトを宥めようと、アリーナが続ける。
「イヤじゃなかったし……あの時、凄く……ドキドキしてた……」
「……」
彼女の頬がほんのりと桜色に上気した。
驚いているクリフトと目が合って、アリーナはドキリとした。この狼狽を隠そうと、「心臓が活発に動いてくれて、良かったんじゃないかしら」と冗談めいて笑う。
クリフトもまたアリーナの笑顔を頬を染めて受け止め、彼女に回す腕を強くした。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……では、お詫びの言葉ではなく、誓いを立てさせて下さい」
「え……?」
クリフトの真摯に見つめる瞳に釘付けにされ、アリーナは顔中を赤く染めだした。
「誓っても宜しいですか? ……貴女に」
静かに返事を待つと、彼女がコクリと頷いた。
「ずっとお傍で、お守りさせて頂きます」
アリーナの顎に人指し指をかけて、そっと持ち上げる。
クリフトからの優しい口付けが、そっとアリーナに落とされた。
寒さの残る冷たい唇。
でもその中は。
とても温かくて、融けそうになった。
ツバサ。
きっと貴女を守ってみせる。
その背の翼が折れぬよう、傷つかぬよう。
きっと貴女を守ってみせる。
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