「ねぇ、クリフト。知ってる?」
宿のロビー。自室へ戻ろうとしたクリフトがアリーナに呼び止められる。
既に夜は更けて久しく、「こんなに遅くまで」と出かかった声は今しがた発せられたアリーナの質問によって消され、クリフトは喉元の言を止めて彼女を見た。
「昔、泣き虫の神さまが流した涙が、ドロップになったんだって」
見ればアリーナは何をするわけでもなくソファに横臥して素足を泳がせ、その籠もった声からも分かるよう、口に何かを含んでいた。
「ソロさんから分けて貰ったのでしょう」
「うん」
既に甘い香りがクリフトの鼻腔を擽っており、その正体は判明(われ)ている。
クリフトの言葉に頷いたアリーナは、ふっくりと頬を膨らませていた大玉のキャンディーを舌先より覗かせた。
「りんご味」
「そのようですね」
アリーナはクリフトが深夜の飲食について注意するだろうことを覚悟している。特にソロ達と合流してからは、自分がソロの真似をして「不良」となっていくことに目を光らせている彼は、今も砂糖を煮詰めた塊を口に放り込む自分に落胆し、その美しい柳眉を厳しく顰めるのだろう。夜更かしについて言及はなかったものの、彼の諫言が何時発せられるかとアリーナは内心待ち構えていた。
「怒る?」
「いいえ」
しかし声を落とした彼が近付いて言ったのは、叱責でも落胆の言葉でもない。
ソファの傍まで歩み寄ったクリフトの影に覆われたアリーナは、突然の視界の暗さに上目見るが、それも身を屈めた彼によって制される。
「ん、」
アリーナが顔を上げたのではない。今は手袋を外したクリフトの硬質の指が、アリーナの細顎を捉えて持ち上げたのだ。
「んん……ン」
やや強引に唇を押し開けられて塞がれる。
深く割った唇はアリーナの中へと滑り込み、歯列を確かめるように舌が這い回った。
不意に振り落ちたキスにいつものような優しさはない。奪うような深く長い口付けに、アリーナは呼吸と身体の緊張をなくし、ソファの上で震えた彼女は、まるで縋るように彼の胸元の服を掴んだ。
「ん、んんっ」
それは息が詰まるほど。
いつになく扇情的に差し出された舌はアリーナの柔らかな咥内を探るように犯し、やがて何かを捉えると、引きずり出すようにして絡め取る。
痺れるような甘い口づけの後、クリフトは離れることを惜しむように彼女の唇を己の唇で擽りながら囁く。静かな低音が甘い香りを漂わせたのは、彼がアリーナからドロップを奪ったからか。
「姫様の口を占領するのが、その神様だというなら」
クリフトは長い指をアリーナの細顎にかけたまま、まるで射抜くような瞳を注いで言った。
「邪魔ですね」
妖艶な微笑が飛び込んだかと思うと、ガリ、とドロップの砕ける音がした。
時折見せる貴方の仕草に、なんだか眩暈がして。
「ソロがピサロを救ったのは、運命に逆らったのかしら。それとも、それが運命だったのかしら」
アリーナは敢えて「ピサロを」と言った。
千年に一度しか咲くことのない奇跡の花で蘇ったのは、勇者が誰よりも生き返らせたいと思っていただろう幼馴染のシンシアではなく、彼女と故郷を滅ぼした魔王の恋人ロザリー。一度は殺められた命を救われたのはロザリーであるのに、アリーナはピサロこそ勇者ソロによって救われたのだと思っている。そして今のピサロを見れば、事実は明らかだった。
「ソロさんは神とか、導かれるといった言葉が嫌いですからね」
アリーナの言葉に答えたクリフトは、剣を背にしまいながら魔物の居城を見上げる。新たなる暗黒を漂わせる闇の城へと入っていくソロとピサロを見送って時間が経つが、殺し合う運命にあった筈の二人は、もう王の間に辿り着いただろうか。
「喧嘩してなければいいけど」
「大丈夫ですよ。喧嘩をするほど仲良くはないと、お互い認め合っているのです」
「頑固よねー」
本来ならば互いに相容れぬ存在である魔王と勇者が、こうして手を組み真の敵を討つというのだから、運命とは数奇なものである。クリフトもアリーナも、武闘大会より追い続けてきた仇敵デスピサロと共に旅をすることとなった時は驚いたものだが、ピサロを陥れたという第二の魔王も、真逆(まさか)この二人が同時に己の首を狙いに来るとは思ってもいないだろう。
「手を組んだら最強の二人だもの。大丈夫よね」
殿を任されたクリフトとアリーナは、パーティーの退路を守る為に今はデスパレスの門前に対峙している。見渡す限りを倒したモンスターで埋めながら、二人は城の最上部を窺っていた。
クリフトは血に染まったツメを拭いながら周囲の索敵を続けるアリーナに、彼女が最初に呟いた言に対する返事をする。
「運命に抗うということは、それをお与えになった神に背くということです」
やや間の空いた会話ではあったが、アリーナはその意を汲んでいるようだった。
普段、クリフトは運命について多くを語らない。それはソロとは全く違った意味で、彼にとって運命とは、仕える神のしるしそのものであるからだ。神を不用意に語ることを畏れるクリフトが、それでもこうして口を開いたのは、魔物とはいえ多くの命を摘み取った呵責によってであろうか。
「クリフトは神さまに背いたと思ってる?」
紫雲を貫かんばかりに聳えるデスパレスの尖塔を見上げていたアリーナは、視線を戻してクリフトに問う。
見れば彼は、一羽の鳥すら羽を広げぬ暗い虚空に眼差しを溶かしたまま答えた。
「これが試練なら与るのみです」
漆黒の霧を放ったその手が、手袋の下で震えているのではないかと、アリーナは時折不安になる。癒すことが生業であった彼の手は、この冒険で生命を狩る術を得た。それが彼に定められたものだと言うなら、アリーナは神を呪うしかない。
「クリフトが罪を感じることなんてないわ」
いつだろうか、アリーナは心に決めたことがある。
彼女は血糊で緩んだ手袋をはめ直すクリフトに、真直ぐに視線を注いで言った。
「私、あなたがあなたの仕える人に背かないで済むようにしてあげる」
立ちはだかる敵は全て自分が倒す。そうすれば彼は誰の命を摘み取ることもなく、ただ傷ついた自分だけを癒してくれる。そう、傷つくのは自分だけで十分だ。
そしてまだ誰にも打ち明けていない二人の関係に於いて、彼が躊躇いなく触れてくれるのが傷を癒す瞬間なのだから、アリーナにとってこの決意は都合が良い。
「姫様」
「生憎、私もソロと同じ。運命に逆らうのが好きだもの」
そう言うとアリーナは、悪魔と冠した武器の名に相応しく紫の血に染まったツメを構え、得意気に笑って見せた。
我城を飛び出したお転婆姫だと自らを皮肉っているのか、アリーナの微笑は手甲に装備した刃の輝きに相俟って好戦的な鋭さを増す。愛らしい容姿には凡そ似合わぬ獰猛な武器が、しかし彼女を更に美しくさせるようで、クリフトは刹那、戦の女神を見るような眩さに目を細めた。
「姫様」
抗うように定められた者達が集まったのがこのパーティーならば、
導かれし者たちは、一体何に導かれたというのだろう。
アリーナが抗うと言うならば、それに従わぬクリフトではない。
そもそも己がこの冒険で身に付けたあらゆる力と術の全ては、天空の神に仕える為でなく、地上の彼女を守る為に得たものだ。癒しの術も、滅びの業も、彼女の生きる道具となれば、クリフトはそれだけで光栄を与ることが出来る。しかし聖職に就く己の戦いの道に、アリーナ自身が背徳を痛苦するというのは、クリフトにとって皮肉だった。
労わりに満ちたアリーナの笑顔に返す言葉を失ったクリフトは、そうしてツメを装備したまま器用に持ち物の中からドロップ缶を取り出す彼女を見て驚く。
「ねぇクリフト。神さまの涙、食べる?」
アリーナは冗談っぽく言うと、カランと缶を揺らした。
それは最後の戦いにパーティーが分かれる時、アリーナがソロより受け取ったもの。この戦いに勝利した暁には、ドロップと共に入れた世界樹の種を植える約束をしている。世界樹の花より実った種が、次にどんな奇跡を見せてくれるのか、この戦いが終わった後に二人で楽しみにしているものだった。
魔物の屍が累々と地を覆う殺伐とした城門前、いつ新手がやってくるとも分からぬ状況に、アリーナは軽やかな音を転がしてドロップをひとつ出すと、そのまま口に運ぶ。柔らかい頬をぷっくりと膨らませてドロップを舐める姿は可愛らしく、いや、相変わらず肝が据わっているというべきか、クリフトは彼女らしい瞬間に緊張を解いて微笑した。
一方、気付かぬうちに麗笑を注がれたアリーナは、暫くドロップを味わった後、次第に眉間に皺を寄せ始める。
「うわ、ミントだった……」
フルーツ味を詰めたドロップ缶の中で、アリーナは鼻腔を抜けるような爽快感のあるミント味が苦手だった。
咽喉に通る呼吸を鋭くさせる薄荷特有の感覚に佳顔を顰めた彼女は、その不快感を訴えるようにクリフトを見る。
「いただきますよ」
これにクリフトは端整な顔貌を崩して笑った。
彼は苦い顔を見せたままのアリーナに近付き、ドロップを含んだ頬を慰めるように優しく撫でると、その口をゆっくりと開かせる。薄く開いた唇の間より舌を差し入れ、クリフトの唇はそのまま彼女の中を味わった。
「、ん」
温かい咥内によく舐められぬまま佇む大玉のそれを舌に捉えると、クリフトはそっと受け取る。正直、彼女の甘い唇を長く堪能したいものだが、苦手な味のままのキスではそれも適わず、彼は静かに唇を離した。
「んん、ん……」
まだ幾許も大きさの変わらぬドロップを渡したアリーナも、名残惜しさを募らせてか鼻にかかった甘い声が尾を引く。本来ならば、このような状況で口付けを交わすことなど考えられないが、しかしその冷静さえ今の行為を煽るようで、アリーナはクリフトの腕を強く握って彼の内に留まる。
既に彼の頬に移ったミントを見て、アリーナが窺うように言った。
「噛んじゃう?」
それは以前、彼の奥歯で噛み砕かれたことがある。確かあれはソロと合流して間もない頃だったか、アリーナが彼にドロップの発生について初めて聞いた時のことであったから、よく覚えていた。
クリフトがミント味を好んでいるかどうかは知らないが、今回もまた彼の奥歯に砕かれるのかと思ったアリーナは、右頬を膨らませて存在を知らしめるドロップを見つめる。
金の睫毛が瞬いて様子を窺う様に苦笑を零したクリフトは、優しい低音で答えた。
「いいえ。大事に舐めさせて頂きます」
それは大事に。
咥内で丸いドロップをどのように転がしているのだろうか、どこか色っぽく口を動かしたクリフトにアリーナは閉口して頬を赤らめる。
普段は甘いものを口にすることのない彼が、自分から受け取ったものを舐めているというのはあまりに面映い。しかも、二人きりの時にさえ彼が彼を見せてくれる時は限られているというのに、張り詰めた空気の漂う敵地、最終戦を迎える緊迫した状況下で、このような行動に出るクリフトの意外性に滅入ってしまう。
なにより彼の咥内に抱かれているのが、まるで自分であるかのよう。アリーナは目の前で微笑む秘密の恋人に言葉の全てを失ってしまった。
「さぁ、まいりましょうか」
クリフトがそう言うと、背後の黒い森から血の匂いに誘われたモンスターが続々と現れる。殺気に満ちた魔物の唸りが空を裂き、辺りは禍々しい邪気に覆われ始めた。
「神がこれ以上、涙をお流しにならないように」
一度は背に収めたクリフトの剣が、再び光を放って身を表す。研ぎ澄まされた金属が冷たい音と共に鞘を掠めて抜かれると、同時にクリフトの麗貌もまた鋭く冴えた。
十字を切ってモンスターの群れに飛び込んでいく彼の風に前髪が舞い上げられる。熱く火照った頬が涼やかな風に撫でられ、アリーナはそこでようやく自らの熱に気付いた。
しかし普段なら戦闘の匂いに瞬時に戦神へと変わる彼女も、今は暫し空っぽになった口を動かして頬を赤らめるばかりだった。
ねぇ、知ってる?
むかし、泣き虫神さまが流した涙が、今ではドロップになったんだって。
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