Think of me,
Think of me fondly,
when we've said goodbye.
翌日。
サントハイム王への謁見を終えた神父が廊下を歩いていると、奥の部屋で俄かに慌しい物音を立てているのに気付く。最近年齢の所為か落ちてきた視力をその方向へと注げば、扉付近で苦い顔を見せる重臣ブライの姿を捉えられた。
神父の不思議そうな眼差しに気付いた彼は、振り向いて怪訝そうに口を開き、事の次第を説明する。
「なんと珍しい事もあるものじゃ」
盛大に行われた仮面舞踏会が終わって迎えた朝、アリーナは余程興味を示さなかった出席者名簿をひっくり返すように調べているらしい。
舞踏会に列席した客人達は当然仮面を付けて身分を隠してはいたが、名簿にはやはり名前や身分だけでなく、どのような出で立ちで参加していたか等の詳細が書かれてある。興味を持ったアリーナが後で確認できるように、その内容は事細かに記載されていた。
名簿を片手に山のように積み重ねられたプロフィールを次々と開いては投げるアリーナ。既に散らかって溢れたそれを周囲の侍女達は驚き慌てながら片付けていく。真剣に何かを探し出す主人の様子から、彼女達は遂にアリーナもその意に適う人物と巡り会われたのかと心を躍らせながら忙しなく動いているようだった。
「ブライも探してよ!」
「しかし私はその者を見てはおりませぬ」
ブライの話では、朝から名簿を虱潰しに探してもアリーナの目当ての人物は見つかっていないという。
「でも居たのよ! 黒い仮面の――」
「黒は沈黙と闇の色。凡そ舞踏会に黒の仮面を付ける者は」
「居たんだから!」
先程からこの繰り返し。
ブライはいよいよ疲れたという表情を見せ、背中を見せたまま熱心にリストを洗っていくアリーナに皮肉めいた一言を呟いた。
「姫様はファントムに心を奪われてしまったか」
華やかな舞台に影のように現れるというファントム(幻影)。光が強ければ影も濃く見えるというが、ブライはアリーナがまたそのような難解な存在に魅かれてしまったのかと溜息が漏れる。年を重ねてようやく手に入れた平和の中で、残る人生の課題は彼女の結婚ひとつとなっているのだが、凡そアリーナは自分の望むような道を選んでくれたことはない。
ようやく結婚相手に興味を持ってくれたのかという期待は、ここに来て厄介な問題へと変わりつつある。ブライは彼女が幽霊退治に心が傾く前に、目の前に積まれた婚約者候補に少しでも目をかけて欲しいと思っていた。
「サントハイムにも幽霊が棲んでおるのかの」
「まさかそのような事は」
ブライの呟きに苦笑した神父は、懸命にリストを漁るアリーナの姿に視線を移してやや寂しそうな声音で言った。
「舞踏会に出たのはファントムなどではありますまい」
そう、彼女が見たのは幻影ではないだろう。舞踏会で婚約者を求める王族の心を奪っていくのは何も幽霊だけでないのだ。
「……私は靴も落とさず帰ったシンデレラを不憫に思うばかりです」
「?」
静かに紡がれた言葉の真意が読めず、ブライが不思議そうな表情を見せていると、ようやく神父の存在に気付いたらしいアリーナがパッと振り向いて彼に問う。
「あっ、神父様!」
どうやら用件があったのだろう。
注がれた視線でアリーナの言わんとすることを把握した神父は、次の彼女の言を待たず望みの答えを返すことにした。
「クリフトでしたら昨晩から書庫に篭もっておりますよ」
「ありがとう」
聞いたアリーナは散らかした書類の山を軽々と飛び越えて扉からすり抜けていく。
残された侍女達は羽のようにフワリと舞ったアリーナにつられて踊り出す紙を宥めながら、彼女達なりにそれぞれの候補者を吟味しつつ片付けていった。
神父とブライの間に心地よい風を吹かせて一瞬のうちに去ったお転婆の姫君。神父は目蓋を閉じ、その風に白髪が梳かれる感触を噛み締めた。
まるで我が子のような彼を、
神だけでなく、自分だけでなく、
どうか貴女にも愛して頂きたくて。
アリーナがやや息を弾ませて埃舞う暗い書庫を訪ねてみれば、可動梯子に腰掛けたクリフトが分厚い聖典に注いでいた視線をゆっくりと向けて迎える。
「おはようございます」
「もう昼よ、クリフト」
この部屋の暗さでは時間を忘れてしまうのだろう。夜通し此処に居たのか、クリフトの傍に置かれたランプは今も灯を燻らせて彼の麗顔を仄かな橙色に照らしていた。
日の高い昼とて薄暗い、書物の匂いの立ち込める此処は今にも崩れて自分を押し潰してしまいそう。見上げた顎が天を示す程高くまで本を納めた棚々は、見渡す限りの文字の山。勉強嫌いのアリーナは今でもこの場所が苦手なのだが、そこに彼が居る時は何故だか安心した。
埃っぽい書架に囲まれてクリフトを見失った時の不安と、薄闇の中から何処かしら彼の声を聞いた時の安堵、そして壁のように立ちはだかる本の間からひょっこりとその長身を現した時の嬉しさ。
(、何思い出してるんだろ)
アリーナは自分の来訪でようやく時を知ったような表情を見せるクリフトに、遠い昔の思い出を蘇らせて立ち止まる。
「昨夜は如何でしたか?」
「クリフト、その事なんだけど」
ひんやりとしたこの場所に溶け合うような穏やかな視線で己を見つめるクリフトに、アリーナはやや急いだように口を開いた。
「貴方は、昨日……何をしてた?」
彼にこのような質問をするのは初めての事だった。今まで彼に自分とは別の時間があるとは思いもしなかった自分である。彼の行動が気になるなど、質問を投げかけたアリーナ自身が今の言葉に驚いていた。
「昨晩は子供達の仮装パレードが終わった後、こちらの整理をしておりました」
「、そう……」
神父の言う通り。
夜通しクリフトが書庫に篭もって聖典を読み耽る事はよくあって、それはブライからも幾度となく聞いている。いつもと変わらぬ晩を過ごしたという、至って普通に返答をする彼にやや肩透かしを喰らいながら、アリーナはホッとしたようなガッカリしたような一息を吐いていた。
「どうしましたか?」
クリフトが穏やかな低音で問うてくる。やや首を傾げて己の表情を窺う彼の麗顔に、アリーナは何処か探るように言った。
「昨日はね、たった一度だけ上手く踊れたわ」
涼しい顔を崩さぬクリフトに焦燥する自分を不思議に思う。
「黒い仮面の、背の高い男性(ひと)」
彼の前でこんな話をするなんて。
いまだ昨晩の彼を思い出している自分の胸の高揚がクリフトに伝わるとは思えないのに、その経験の未熟さ故に饒舌になりきれぬアリーナは、感情だけを空回りさせているようだった。何故こんなにも昨日の出来事をクリフトに伝えたいのか分からない。
しかし、
「貴方以外であんなに楽しく踊れたのは初めてだった」
アリーナは自分がどこかで彼に縋っているのだと思った。
「クリフトかなって思ったんだけど、……違うのね」
相槌を待たず言葉を続けたのは、彼の返答が怖かったからだと自覚する。手に抱えた書物より既に瞳を逸らし、自分を見つめる表情が何と口を開くか、アリーナは初めて彼との会話に緊張と不安を覚えた。
「あの人なら好きになれるかもって思ったの」
「姫様」
しかしその答えはアリーナ自身でも理解っているようだった。クリフトの穏やかな面持ちは既に自分の言をそっと否定している。アリーナにはそれが何故か居た堪れなくて、敢えて言葉を重ねていたのだと気付くほど。
「私は昨日からこちらに居りました」
「そう、よね」
先に神父より聞いていた事だ。それが本人の口から聞いて、紛うことのない事実になっただけのこと。
「ごめん」
「いえ、そのような」
舞踏会で出会った仮面の男がクリフトなら、という儚い希望が掻き消えた今、フッと肩の緊張を解いたアリーナは苦笑を滲ませる。
「しかし姫様の御眼鏡に適う方が居たというのは喜ばしいことです」
「うん……」
彼の優しい口調が辛い。
アリーナは胸中に針のような痛みが走るのを感じながら、いつの間にか俯いていた顔を挙げて口を開く。
「邪魔になるから……行くね」
多分。今、失恋した。
初恋も知らぬ自分が何故そう悟るのか可笑しいとは思いながら、アリーナは逃げるように彼を振り切って踵を返す。
「姫様」
背後から呼び掛けられる声も聞かないで去りたかった。
しかし彼に呼び止められれば足を止められずにはいられない。
「姫様。どうかそのままお聞き下さい」
淡々とした、それでいて確りとした口調。
手を掴まれたわけではないのに、足が止められるどころか身体さえ緊張する。アリーナは震えそうになる拳を強く握りながらクリフトの声に耳を澄ませた。
一方のクリフトは立ち止まったアリーナの小さな背中を見て口を開く。
「私はこの先一生結婚しません」
彼女にこの意味が伝わるかどうか、クリフトは迷わなかった。
神に仕える身分なる故に無意味にも取れる言葉を敢えて告白するのは意味がある。
「貴女が誰をお選びになられようとも、私は誰も選びません」
それが私の貴女への愛。
「私は貴方のものです」
背を向けたままのアリーナの体躯の小ささを改めて感じながら、クリフトはその心に届くよう静かに言った。
「……ありがとう」
落ち着いた声からはアリーナの表情は分からない。
しかし凡そこれまで彼が見守り続けていたお転婆姫のものと違うのは明らかで。
「私、結婚するわ」
意思の強い彼女の性格を如実に示したような突き抜ける声がクリフトに返ってくる。
アリーナは短い言葉を言い終えると、颯爽と書庫を走っていった。
永久(とこしえ)に結ばれぬ愛を誓う。
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