そうして候補者の中から選ばれたのは、サントハイムに縁ある王族の子息だった。まだ車輪も道を通らぬ大昔にサントハイム王家と血を分けたという古の親縁で、今は小さな我城に田園を囲みながら村の領主として過ごしているということだった。
申し出を受けた側は、本サントハイム王家の縁談に喜びながらも、そのあまりにも火急な話に驚いたのは当然の事で、今後の事も考えるに「まずは二人のお付き合いを」と月に何度か互いの地を訪問し合うという事で合意した。
「申し分ないわね」
その対応といい、とアリーナは恭しく言伝を述べる使者を前に呟けば、これを隣に聞いたブライは地獄耳宜しく「姫様!」と小声で窘める。
そうして数日後に謁見に見えた男は成程容姿も優れ、立ち振る舞いや性格にも非の打ちどころの無い、まさに完璧の相手だった。
これに最も喜んだのは王宮の侍女達で、見目麗しい近衛兵の後に続いて歩く彼の周りには必ず黄色い声が飛び交い、これには漸くの安堵を得たサントハイム王すら敵わぬ様子。
正式な発表がないとはいえ、華やかな王宮の俄かに色めき立つ様は城下にも伝播し、二人の交際は今やサントハイム中の話題を攫うこととなった。
自国の王女の結婚が近いとなれば、城下町も祝いに向けて賑い出す。
当の本人達以上に周囲が盛り上がる中、アリーナはそれから半年を彼との交際に捧げることになった。
「と言っても、まだ五回しか会ってないんだけど」
庭園で語り合う二人を傍から見た神父は、既に仲睦まじい夫婦のようだと微笑みかけてその場を通り過ごしたのだが、その後聖堂に現れたアリーナは、笑顔で迎える彼に苦笑を浮かべて言っていた。
「仲良く見えたかしら。それなら良かったわ」
どうやら自分が笑顔を作れていたか不安だったらしい。
神父はそうして緊張を解いたアリーナが疲れたように安堵の笑みを漏らすのを見つめると、彼女を労うように優しく言った。
「ご不満ですかな」
「不満というか、」
懺悔室に居る訳でもなく心音を打ち明けられるのは、この神父もまた目付役のブライと同じく幼少より自分の成長を見守ってきた人物であるからだろう。
「結婚したら幸せになれるのかな」
「なろうと思わなくてはなれませんよ」
そして何より彼はクリフトと口調が似ている。否、神父がクリフトに似ているのではなく、クリフトがこの人によって育てられたからに違いない。等身大の自分を晒すことが出来るのは、何時でも聖堂に来た時だった。
「実はね、正式にプロポーズされたの」
今日、まさに神父が見た光景の後の話。
麗人とも言うに憚りない彼が、その柔らかい眼差しを湛えて言ったのはつい先程の事で、お土産にとアリーナの手のひらに差し出した真紅の小箱の中には、彼の家に古くから伝わる指輪が入っていた。驚きに言葉を失っていると、新しいものはアリーナの指に合わせて作っていると言う。
「私は貴女を幸せにして差し上げられるって」
「それはそれは、」
俄かに頬を染めてはいるものの、その花顔には憂いこそあれ喜びはない。
アリーナの可愛らしい告白に目を細めていた神父も、戸惑いの色が滲む横顔に気付けば、不意に笑みも消えてなくなる。
「ねぇ神父様」
アリーナは彼の方を見ずに言った。
「幸せになる必要ってあるのかな」
侍女たちが口々に結婚は幸せであると言う。しかしアリーナは、彼女達が羨ましがる男性を隣にしても、その彼から幸せを約束されても、まるで自分の事とは思えぬ感覚だった。
「姫様」
彼女の次の言葉が無くなった後、神父は暫くの沈黙を経て口を開く。
その口調は、普段は穏やかな彼が時折見せる、アリーナを諭す時と同じものだった。
「神の御前で偽るおつもりですか」
此処は神の住まう聖堂。
せめて十字架を前にした今だけでも、その背に負うた罪の意識を幾許も打ち明けられれば、彼女とて独り苦しむ事はなかろうに、と神父は彼女に問い質すように言を続ける。
「今の姫様では、私も婚儀を取り仕切ることはできますまい」
いつにない厳しさを覗かせた彼の言葉にアリーナが顔を上げた時、聖堂の重厚な扉がゆっくりと開いた。
「戻りました」
「クリフト」
振り向いた神父が声をかける。北にあるサランの町の神父に届け物の使いを出したのは彼で、クリフトの無事を見た神父は次に「おかえり」と微笑んでいた。
その神父の影でアリーナの肩が震えたのは何も驚いたからではない。
「姫様?」
クリフトは外套を脱いで腕に掛けると、神父の隣に腰掛ける彼女の姿を見つけて「どうなさいましたか」と声を掛けようとした。王家の子息との交際が始まって以来、会うことはなかった二人であったが、久しぶりに聞く彼の声色は、とても穏やかで温かかった。
それが不意にアリーナの涙を誘った。
「姫様、」
揺れる髪に肌が撫でられたと思ったのは刹那のこと。アリーナはクリフトの開いた扉の隙間を縫って疾風のように出て行った。気付いた時には既に廊下にすら姿はない。
彼女の残した風にお互いの髪が靡いたことろで、クリフトと神父の瞳が合う。
「……神父様。何か姫様に言いましたか」
「そう睨むな」
普段はたおやかな微笑を湛えるクリフトが、あからさまに不機嫌を見せるのはこの神父の前でのみ。クリフトはまるで我が師がアリーナにきついお灸を据えて苛めたのではないかと不信の瞳で詰った。
「まぁしかし、何か言ったことは間違いない」
神父は彼しか見ることの出来ない弟子の反抗的な視線を受け流すと、しかし次はゆっくりと溜息を吐いて呟く。
「泣かれていたような、」
「失礼します」
神父の髪が二度目の風に揺れた。
見れば次の瞬間にクリフトの姿はなく、彼が今しがた羽織っていた外套だけがフワリと教会の椅子に落ちていた。
「まったく、」
クリフトも姫様も。
独り聖堂に残された神父は、柔らかな苦笑を零して彼の外套を手に取った。
「泣かせたのはお前ではないか」
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