寝覚めに「背中が痒い」と思った。痒みに起きた訳ではなかろうが、肌に触れるシャツにいつもと違う感触を覚えたのは間違いない。然しそれより先に、外はまだ夜も白み始めたばかりの頃だと気付いたのだから、この時の気付きはほんの些細な事であったろう。
痒い所に手が届くとは、逆に届かぬ者の焦燥を如実に示した言葉だろうが、クリフトにとってその場所に手を伸ばすことは左程苦労を要するものでもない。彼はやや背中を反らしながら其処へ手を伸ばすと、いやしかし、奇妙な感触があった。
歪に膨らんだそこはやけに柔らかく、それに温かい。思いがけぬ指先の感覚に違和感を覚えたクリフトが徐に簡易なシャツを脱いでその背を鏡に映した。すると、
「な、なっ」
そこには息を飲むような純白の翼が生えていた。
翼が欲しいと思ったことはない。抑(そもそ)も翼とは、獣が空で生きるために神より与えられた賜物であって、大地に息づく人間が空の世界を求めることはその分を超えているという考えがクリフトにはある。そして誇大もせず卑下もせず相応に生きることは、敬虔な宗教者である彼にとっては美徳でもあった。
それがである。
「何故、このような」
鏡に向かって独り言ちても状況は変わらない。既に掻いたり引っ張ったりをして取れるものではないと知るに至ったクリフトは、幾分普段の冷静を欠いているとは言え、まずは原因を探るべく最近の行動を振り返る。
(何があった?)
鳥の呪いでも受けただろうか、しかし最近の自分はリバーサイドの物理学者の研究に付き合っていただけで、獣の恨みを買うような殺生をした覚えはなく、自覚できる罪と言えば、彼が必要だと言っていた空を飛ぶに必要な気体を調達してきたことくらいか。
「まさかそれが」
神の怒りを買ったのか。
クリフトは上半身を晒したまま、鏡を見て背に生えた羽毛に触れる。両の肩甲骨あたりに生えた手のひら程の翼は雛鳥のように柔らかく、神経は通っているのか引っ張れば付け根は痛む。しかしこれを動かすことが出来ないのは、羽ばたくことを知らぬ人間であれば当然なのだろうか。
とにかく何とかせねばなるまい。クリフトは滅入ったような溜息を吐いて鏡の中の己を見つめた。
その時。
「おせーぞ、クリフト!」
中の状況などお構いなく、ソロが無遠慮に扉を開ける性格であることには既に慣れているクリフトであったが、背に翼が生えた今はそのように寛容にはなれない。
「ま、待っ――」
「おぉっと!?」
街を縦断する大河が朝日に輝きを増す早朝、鶏よりも甲高い叫び声が平和なリバーサイドの空を突き抜けた。
「でさ、クリフトの奴! 鏡に自分の裸映してやがんの!」
「ソロさん」
それからの朝食は何とも騒がしいものだった。ソロと瞳が合った瞬間、驚いたクリフトは壁まで飛びのいて背中を隠したが、凡そ彼らしくない姿に瞳を丸くしたソロは、そのままゲラゲラと笑って彼の慌てぶりを仲間達に報告しに行く。
「俺ってかっこいい〜って酔ってたんだぜ! このナルシスト!」
「惜しい。それは見物でしたな」
クリフトが服を着て食卓へと加わった時には、既にソロが話を誇張させて仲間達の笑いを買っているところだった。自らの失態を話題にされることには溜息の出るばかりであったが、今はただ彼に背に生えた異物が目撃されなかったことを安堵するのみ。クリフトはソロの揶揄うような視線を冷笑して受け流すと、普段通り食前の祈りに手を合わせることにした。
本日の予定は、「気球」なる物体を空に浮かべること。此処の学者の話では、空気より軽い気体を詰めた風船で空が飛べるというのだが、空気に軽重のあることすら知らなかった一行は、原理はともかく山や海を自由に移動できるというそれの実験体になることを快く承諾し、完成を待っていた。クリフト個人としては、人間の分を超える移動手段に素直には頷首できなかったものの、魔王の脅威が迫る今となっては手段を選ばぬという勇者の意見に反対しようとまでは思わない。そう、非力な人間が運命に抗うには、道や正義を選んでいる余裕はないのである。
そうしてクリフトが本日の初飛行の成功を祈ろうとした時、背中に響くような痛みが疾走った。
「っ、」
翼の付け根が動いたかと思うと、押さえつけていた包帯に圧迫されて痛んだのである。
「クリフト?」
俄に背を捻って姿勢を崩したクリフトに気付いたアリーナが、スープを掬う手を止めて尋ねてきた。大きな丸い瞳に見つめられるのは何時だって緊張するクリフトであるが、この時ばかりは普段以上に平静を装って微笑を返す。
「いえ、何でも」
まさか背中に翼が生えて痛むのですとは言えない。クリフトは未だ今朝の出来事を話しているソロを窘めながら、今の衝動で崩れてしまった包帯を部屋に戻って巻き直さなくてはと思った。
この痛みは、骨が急激に伸びる成長期のそれに似ている。毎夜寝ている間にも軋むように痛み、翌日の身長が目に見えて大きくなっているというあれだ。つまり背に生えているこの翼は間違いなく成長しており、そして残念な事に著しく大きくなろうとしているらしい。
包帯を強く巻き直したクリフトは、己の呼吸に合わせて鈍く動く翼を眺めながら重い溜息をついた。見れば見るほど奇妙なそれは、しかし生々しい現実味を以て己の視野に入ってくる。白い羽を根こそぎ毟ってしまえばと掴んではみたものの、たかが一本を抜くのに激しい痛みが全身を貫き、全てを取り去る頃には意識を失っているだろうと思って止めた。今なら鼻毛を抜いて目尻に涙を溜めるトルネコの気持ちにも共感できる。
「いや、これは鼻毛というレベルではない」
クリフトは鏡に向かって嘆息すると、彼らしくもなく前髪をクシャクシャと掻き上げて項垂れた。
(皆さんに打ち明けるべきなのか)
今朝はあまりに衝撃的な出来事であった故に咄嗟に背を隠してしまったが、この異常事態はせめて冒険のリーダーであるソロには相談すべきかもしれない。今回の旅、そして導かれし者の道に関係があるとは思えないが、隠し続けるというのはあまりに胸が痛かった。
(しかし、)
ソロに揶揄われたとしても、マーニャに弄ばれようとも、または金銭に目の眩んだトルネコによってサーカスへ売り飛ばされようとも、己の今の病気(なのかは皆目見当もつかない)によって冒険が滞るようなことがあってはならないとクリフトは思った。一度ミントスで病に臥せったクリフトは、アリーナの歩む道を止めてしまったことを酷く悔やんでいる。今回、またパーティーが己の背に生えた珍妙な翼について解決しようと動くことになれば、折角空の自由を手に入れた今、新しい道を目の前に脱線を余儀なくされてしまうに違いない。
そうして脳内で堂々巡りをしたクリフトが気怠げに頭を振ると、部屋の扉が小さくノックされる。
「クリフト、大丈夫?」
「姫様」
アリーナだ。扉越しに彼女の声を聞くと、クリフトは慌てて上着に袖を通して服装を整える。何処も可笑しい所はないと言い聞かせるように鏡の前で姿を確認し、それからゆっくりと入口に向かってドアノブに手を掛ければ、そこには不安気な面持ちのアリーナが救急箱を抱えていた。
「如何なさいました?」
「宿のおばさんが、クリフトに包帯を渡したって言ってたから」
怪我をしているのではないかと、アリーナは心配そうにそう言って胸元に抱えた救急箱を見せる。これが日常であれば、臣下である己の身を案じる彼女の優しさに心打たれ、何度も感謝を申し述べるところであろうが、言葉通り背に非現実を背負っている今は、如何にして彼女にこの事実を隠そうかと思考が巡るばかり。
「えっと、そのですね」
しかし、包帯を拝借したことを彼女に知られた衝撃と、アリーナが己の部屋を訪ねてきたという嘗てない事件、そして何より、可愛らしい上目遣いで救急箱を抱える想い人の姿には言いようのない破壊力がある。混乱した頭では背の翼を隠す以外に包帯を使う理由が見当たらず、クリフトは刹那息を飲んだ後にゆっくりと口を開いた。
「大丈夫です。もう治りました」
「本当?」
「えぇ、本当です」
彼女に嘘を吐くのが辛い。無垢な瞳に微笑む自分の何と浅ましいことかと、クリフトは内心幻滅しながらアリーナを廊下に促す。窓を見れば、すぐ傍の広場には気球が既に用意されており、あとは二人を待つのみとパーティーが揃っていた。
「さぁ、我々も参りましょう」
足を止めてはならぬと、クリフトは自らの言を反芻しながら穏やかに言った。
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