背中の影が延び切る その合間に
しかし痛い。痛すぎる。
冒険の日々でダメージに慣れているとは言え、これまでにない場所が痛めば誰しも動揺するだろうとクリフトは思った。そもそも人間は翼がなくて当然なのだから、肩甲骨の痛点など鍛えられよう筈がない。気球を運ぶ籠の縁で背を丸めながら、クリフトは眼窩に広がる大地の景色のえも言われぬ青さに苦しげな息を吐いた。
「お、クリフト。吐きそうなのか?」
同じような格好で籠から身を乗り出すソロは、こちらは楽しそうに景色を眺めている様子。彼は隣のクリフトに顔を向けてカラカラと笑うと、「そのまま垂れ流せ」などとけしかける。クリフトは相変わらずの彼の粗野さに曖昧な笑みを返しながら、彼の指摘する乗り物酔いを柔らかく否定した。
「あら神官さん、不自然な前屈みねぇ」
すると今後はマーニャが間を割って入る。先程まで空で一曲踊ってみたいと言っていた彼女は、大海原にゆったりと浮かぶ気球にもう飽きたというのか、何か面白いものでも探すかのようにクリフトに近付くと、卑猥な笑みを浮かべて囁いた。
「あれでしょ? ほら」
「あれとは」
彼女の中での自分のポジションがいい加減理解ってきたのか、クリフトの嫌な予感は大抵的中する。そして今回も身に感じた警戒に対する判断は正しく、彼はマーニャの次の言葉を待たずして対策に当たった。
「カジノのコイン2000枚でお手伝いしてあげるわ」
「ミネアさん、助けてください」
貞操の危機と同時にカツアゲされそうになる自分が情けない。しかも仲間に。クリフトは妹のミネアを呼んで彼女を牽制すると、今度は仰け反るように背中を伸ばして空を見た。
既に高度は山を越え、鳥も魔物も遥か下にその背を窺えるほど。時折白い雲が肩に触れて流れるのを見れば、余程の高さで移動しているのだろうと改められる。次第に小さくなっていく大地にばかり気を取られていたが、上を見れば大きな雲の塊が居並び、人類の知らぬ世界に住まうという竜の神もまた雲間に身を隠しているのではないかという気になる。
(神か、或は)
いつしか聞いた有翼人の伝説。この世界には大地に暮らす人間とは別に、翼を持った一族が天空で神に仕えていると聞いたことがある。古き聖典には翼を持った彼等の存在が幾度か確認され、神であるか、人であるか、或は天使であるかという議論がこれまで交わされてきた。
ならば己の身に今生えて育とうとしている翼は何なのか。まさか人間として十数年も暮らしながら、今更別の生物だったということはないだろう。
(いや、まさかそんな)
これが呪いか罰であるならば、至徳の高僧に告解して翼の姿を解いて貰えようが、これがある生物における成長の一過程だとしたら、己は救いようがない。
そうしてクリフトが恐ろしい考えを巡らせていると、飛び抜けた視力を持つアリーナがある一点を指差して瞳を輝かせた。
「ねぇ、見て! あれ何かな?」
一面を高い山に囲まれた砂漠地帯、白い雲間から青々とした緑が見える。それが森でなく、ただ一本の巨樹であることに気付いた時は、誰もが驚きに言葉を失っていた。
一度気球から降りて、巨樹の頂より聞こえる声主を助ける。クリフトはそれにどんな意味があるのか図りかねたが、ソロが昇ろうと言ってアリーナもそれに頷いたのだから、「お前も来い」と言われれば従うまでである。気球に乗っておいて、実は高所恐怖症なので根元で待機しておりますとは言えないのが、恋をした男のやるせなさか。
不安定な足元に恐怖を感じるのは、背に翼が生えても変わらぬらしいと、クリフトは世界樹が広げる枝々を踏みしめながら密かに嘆いた。己の意思ではあるが、次第に高くなる視界に背筋は寒気を走らせ、包帯に押し込めている翼もまたピクピクと震える。大剣を背負ったそこは妙に違和感があり、これまでとは比較にならない高度も相俟って、体中が不思議な感覚に包まれたクリフトは戦いどころではなかった。
「クリフト、お前もしかして」
「何でもありません」
「高いところが怖いんだろ?」
ソロのニヤニヤがアリーナの陰で注がれるのは、彼なりの気遣いかもしれない。既に己の秘めた感情を見透かされた節のある彼には、隠していた弱点を暴かれるのは仕方ないとクリフトは物憂げに瞼を伏せた。年齢が近いせいもあって友と呼べるまで心を許した彼に、翼が生えたことを気付かれるよりはずっとましだろう。クリフトは背に冷たい汗が流れるのを感じながら「それは秘密です」とだけ答えた。
「クリフト。なんだか今日は貴方らしくないわ」
「姫様」
「まだ傷が治ってないの?」
ソロとの秘密めいた会話を遠巻きに見ていたアリーナが、枝を伝って心配そうに近付いてくる。
「背中が痛む?」
「、」
先程から剣を抜かず魔法のみで戦っていたことは彼女にも気付かれているだろうと予測はしていたが、己が今最も問題を抱えている部位まで言い当てられるとは思わなかった。相変わらず直感が鋭いのは、彼女の洞察力が成せる技か。アリーナの大きな瞳が不安げに見つめてくるのに戸惑ったクリフトは、帽子を目深に被り直して視線を反らす。
「少々背が張るだけです」
「クリフト」
「参りましょう。声が近く聞こえます」
豊かに伸びる枝々の、更に豊かな葉から青空が見えてきたのだ、頂上は近い。巨樹の麓から思念波にように届いていた声は今やハッキリと聞こえ、助けを求める者が待っているのだと強く感じる。クリフトは口元に微笑を湛えてそう言うと、彼女の不安から逃れるように枝に掴まって木登りを再開した。
「、クリフト」
その唇の固い動きに何かを察知したアリーナは、再び彼の名を呼ぶ。やはりクリフトは何かを隠しているのだと、先を歩く彼の後ろ背に手を伸ばそうとした時、幹の上からソロが目も覚めるような驚きの声を発した。
「お前! 大丈夫か!」
既にクリフトとアリーナより上の枝に登っていた彼は、やや開けた葉の重なるところで倒れていた人を発見する。凡そ彼らしくない困惑に満ちた声を聞いたクリフトが続いてその場に走りよれば、
「こ、れは」
「誰か。誰か助けて……お願い」
大きな翼を不自然に折り曲げながら横たわる女性が、嘗てない衝撃をもってクリフトの瞳に飛び込んだ。
「ルーシアと言います」
遥か天空には翼を持った人間が城を作り、竜の神に仕えているという古の伝説は真(まこと)であった。深々と礼をして名乗る彼女は、その豊かな翼をモンスターに折られて帰る空を失っていたという。クリフトはその場で回復魔法を唱えて外傷だけは癒したものの、折れた翼幹が羽ばたくには暫し時間を要するということで、地上に戻って彼女の療養に付き合うことにした。
「ルーシアさん」
「ルーシアで構いません」
命の恩人にすっかり心を開いた彼女は安堵の笑みでクリフトに答え、クリフトもまた彼女の天衣無縫の表情を見つめながら微笑する。
「ではルーシア。貴女に少しお聞きしたいことがあります」
「?」
クリフトは彼女の背に生えた立派な翼を見て口を開いた。
「天空人とは生まれた時から翼を有しているのでしょうか」
「えぇ、そうです」
クリフトもまさか有翼人種が両生類のように成体になるまで変態するとは思っていなかったが、今になって翼が生えてきた自分はこれで天空人でない事は判明った。聞けば翼を持たずして生まれてくることはないらしく、成長して翼が生えるとか、晩年に翼が朽ちるとかいうことはないと彼女の口から聞き、クリフトも一応は安堵する。
しかし自分が天空人でないと確証を得れば、では目下己の身に起きている現象は何なのかと言う不安も同時に募ってくるもので、クリフトはベッドで休む彼女の容態を気遣いながらも焦れる思いをそのままに質問を重ねた。
「あの。突然翼が生えるという事例を聞いたことはありますか」
「突然?」
ルーシアは彼の真剣な表情から、単なる話題や天空人に対する興味本位では決してない質問であることを悟ると、傍の椅子に拳を組んで座る彼に向かって真摯に言を返した。
「天空人の翼の枚数が増えるのは、その功績を竜の神が褒め称えて翼を授けてくださる時にあります」
本来は2枚で1対となる翼が3枚や4枚と増えることはある。ルーシアが祖母より聞いた話では、竜の神と共に漆黒の魔竜を倒した天空人が7枚羽根を賜ったというのが最高だった。翼の大きさと枚数は空を駆る時の力そのものとなり、翼が力と名誉の象徴であることは今の天空城に於いても変わらない。
「しかし竜の神の賜物でない翼には別の意味があります」
ルーシアは彼の質問の意図する所を知ってか知らずか、クリフトが最も求める答えを差し出す。
「本来空を飛ばぬ者に翼が生えた場合、それは天の神に呼ばれたことを意味します」
「それは」
クリフトは息を飲みながら聞いた。
「生きながら神に仕える、天使に選ばれたということですよ」
至上の名誉とばかり笑顔を見せるルーシアに、クリフトの背筋は凍った。
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