真っ逆さま、とはこういう事を言うのか。
超高速で落ちていく身体に内臓がついてこれないのか、アリーナは胸が押し上げられる感覚に息をハァッと吐き出すと、見渡す限りの白の世界を仰ぎ見た。
「クリフト」
彼は気付いただろうか。僅かな瞬間に捉えた表情からは、叫ぶ声も幾許かは届いたように思えたが、天空への塔を上り詰めることに危機感を訴えた真意がどれだけ伝わったかは分からない。
「ダメだったかも」
塔を昇ってあれだけ近くなった筈の太陽が、重なる雲に隠され次第に遠くなる。アリーナは両手を大の字に広げながら、急激に流れる垂直の雲を掌に集めて小さく呟いた。
「私が死んじゃう、かも」
この高さではまず命はない。世界樹の枝にぶら下がっては青い顔で窘めるクリフトを揶揄っていた自分であるが、今は彼の気持ちもよく理解る。そうだ、落ちれば死ぬから彼は忠告していたのだ。大地を背にして落下する自分は初めて恐怖を抱いているのか、それとも今の現実に目を背けたいだけなのか。遠くなる空を眺めながらどこか冷静な自分にアリーナ自身も驚いた。
せめて彼が歩みを留めてくれれば幸いだ。クリフトの命がそれで救われるなら、彼の存在で救われた自分も本望であろうと、この状況で前向きに微笑むことのできる自身に何故だか涙が溢れてくる。
「クリフト」
右手を空に翳すと、落ちる間際に見た彼の表情が浮かんだ。広げた指先が白い雲の世界に溶け込むようで、アリーナは愈々死を覚悟する。目尻より零れた雫が空に投げ出される様は海に漂う泡のようで、その何処か儚い様が妙に美しいと思った。
「クリフト」
「姫様!!」
これは幻聴か、死に際の走馬灯か。
「姫様!」
天に伸ばした右手の先、白い雲の波間より更に白い光が輝く。刹那それは太陽を背に閃いたかと思うと、鋭い速さをもってアリーナの元へと一直線に向かってくる。声と共に姿を捉えたアリーナは、ハッとして叫んだ。
「ク、リフト!」
隼のように翼を返しながら、クリフトが空から落ちてくる。彼の背で大きく広げられた翼は大気の層を切り刻んで進み、先に落下したアリーナに追いつこうと急降下しているのか。彼は身体いっぱいに右腕を伸ばし、落ちるアリーナを掴もうとしていた。
「姫様!」
「クリフト!」
凡そ彼らしくない叫び声と姿が視界に飛び込み、アリーナもまた彼に手を伸ばす。高速で落ちていく身体を何とか動かしながら二人は手を出し合い、触れ合うことを求める指先は必死に震える。
もう少し、もう少しと痛いくらいに手を伸ばせば、間近に迫ったクリフトが大きな翼を翻して更に加速し、アリーナの指先どころか腕や肩、背中までもを手繰り寄せて己の胸元に引き寄せた。
「姫様」
二人が大地に向かって落下している事実は何ら変わらぬが、雲の波間にアリーナを抱き寄せたクリフトの声は驚くほど安堵に満ちて優しく、その心地よい低音を胸元に聞いたアリーナは声を失う。彼はアリーナを今の衝撃より守ろうとしているのか、彼女のか細い体躯を強く抱き締め、頭は息も出来ぬほど腕の中に押し込めている。胸の昂揚と圧迫される呼吸に一息すら吐き出せぬアリーナは、クリフトの胸の隙間から僅かに見える白の翼を盗み見た。
「あ……」
その儚さに思わず指先が動く。柔らかな羽毛を激しく震わせて広げられていた翼は、その先端から零れるように無数の羽根が舞い、高い空に残るように散っていく。垂直に落下していく風の強さに耐えられないのか、羽根は花弁のように次々とクリフトの背から零れ落ちると、ふんわりと漂って二人から離れていった。
「翼が」
空に溶けていく。アリーナがクリフトの抱擁の中でそう呟くのと、クリフトが「神よ」と祈った言葉はほぼ同時だった。瞬間、木の枝を折るような衝撃音が何度も何度も耳を襲ったかと思うと、アリーナの身体はある地点で止まる。息も出来ぬ程の力で抱き締められていた彼女が解放され、周囲を見渡す瞳を開けたのは、それから随分と経った後だった。
「……生きてた」
その事実に声が震える。森の木々や枝葉が衝撃を和らげてくれたとは言え、あの高さから落ちて助かるとは奇跡だと思った。周囲を見ればそこは深い森で、この場所でなければ二人は確実に命を落していたに違いない。しかしどれだけの枝を折ったことだろうと、やや申し訳なく上空を見上げようとアリーナが動いた時、それは力強い抱擁によって制された。
「、」
言葉もなくクリフトに抱き締められる。彼はアリーナが瞳を開き、声を発したことで生きていることを確かめたのだろうか、あまりの奇跡に突き動かされたクリフトは思わず少女を胸の中に閉じ込めていた。普段は決してアリーナに触れることはない彼が、込み上げる感情のままに包み込む腕は強く、その胸内にすっぽりと抱き寄せられたアリーナは驚きのうちに頬を染める。
クリフトはそうして心臓の鼓動を早くさせるアリーナにも気付かず、震えるような深い吐息をひとつ吐くと、言葉を滲ませた。
「なんということを」
腕の中に包めば、こんなにも華奢なアリーナ。クリフトは小さな彼女が一人で塔を昇り、結界を乗り越え、魔物と戦いながら自分を救おうとしたことを、巧く言葉に表せなかった。塔より落ちた今は勿論、彼女は自分の知らぬ所で命を落としていたかもしれなかったのだ。溢れる感情を制御することに慣れぬ彼は、ただ彼女を抱き締めてその生命を反芻する。
「クリフト」
一方、彼の胸元に熱くなる頬を押し当てる形となったアリーナは戸惑いのうちに全身を固くさせていた。何故なら彼女はこんなにも感情を晒すクリフトを見たことがない。強い腕に震える声、胸元の温かさと広さ。誰かの腕に抱かれることなど初めてであったアリーナは、どうして良いものかと頬を紅潮させるばかりであったが、ふと気付いたように彼の脇腹から手を差し伸ばし、自らの腕を大きな背中に滑らせる。
「翼がなくなっているね」
アリーナの指が感じたのは、肩甲骨あたりに切れ込みの入った上着と、そこから触れられる彼の肌。翼のあった部分は羽根の一枚も残さぬほど見事に戻っていた。
「、良かった」
空から落ちたあの時に見た羽根は、雲間に散って融けたのだろう。アリーナは彼の背中を労わるように優しく撫でると、胸元で瞳を閉じて微笑した。
「貴方が無事で本当に良かった」
ギュッと背中を抱き締める。アリーナはクリフトの抱擁に応えるよう強く彼を包むと、自らもその胸に頭を預けて言った。
「クリフトが死ななくて本当に良かった」
「姫様」
クリフトはアリーナが己の背の翼に気付き、且つその意味までも辿り着いていたのだと知ると、言い様のない熱い感情が押し寄せてくる。また、胸元から心より安堵をもって「良かった」と言う彼女の心に胸は詰まり、これまで隠してきた想いの全てが水面へと吹き出てくるようだった。
「もう隠しません」
彼女に温もりに触れ、優しさに擦られる背中の心地よさにクリフトは遂に口を開く。彼は胸元に押し込めたアリーナの肩口に自らの頭を預け、彼女だけに聞こえるよう静かに、しかしハッキリと言った。
「貴女が好きです」
微細な仕草で己の不調を見破る鋭さも、それを真っ直ぐに問いただす性格も、馬乗りになって脱がせようとする少し強引なところも。一人で塔に登ろうとする勇気や、魔物を打ち破ることのできる強さ、そして、命の危険に晒されながら他人(ひと)を省みる優しさも、温かさも。
「好きです。アリーナ姫」
思えばこの翼は、隠していた自分自身の感情、塔より飛び降りた時に捨てた箍だったのだ。今こうして彼女の手に癒される部分は、傷でもあったかのように温もりが染み透る。愛する人に全てを打ち明けることで、クリフトは心の枷すら解放されたような思いがした。
そうして強く抱き締められたアリーナは、彼の言葉に愈々頬を赤らめると、背中に回した腕を強くさせて「あのね」と唇を開く。
「私もクリフトが好き」
自らの台詞に胸がギュッと締められ、アリーナは熱い吐息を吐いた。彼の前で素直になる自分がとても恥ずかしい。
「でなければ、こんな事してないもの」
彼の翼の萌芽は、またアリーナの恋の自覚でもあった。彼女は火照る頬の熱を預けるようにクリフトの胸元でそう言うと、回された腕が更に強くなるのを感じる。言葉もないまま己を包み込むクリフトとて同じ気持ちなのだと、アリーナは引き結んだ口元に柔らかな笑みを湛えて瞳を閉じた。
「私ももう隠さない」
「あーっ! あんた達、なに抱き合ってるわけ?」
「マ、マーニャさん!」
「ほう、クリフト。お主……」
「ブブブ、ブライ様! ひー!」
二人が落ちたのは天空への塔の付近の森、枝木の緩衝もさることながら、ミネアの聖風によって衝撃を免れたとは気付いていただろうか。落下地点を探しに急いで森へと入った地上のメンバーに抱き合う二人が目撃されたのは、この直ぐ後のことである。
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