−プロローグ−
その慈愛に満ちた微笑みは国の安寧を呼ぶと謳われ、永遠の旅立ちを惜しまれた后の崩御から2年。未だ彼女の名を口にする国民には涙が浮かぶと言われるが、サントハイム城内にあっては長き喪に服す安らぎさえなく、日々騒動は起こる。
「姫様が脱走なされた!」
「今度は北門の兵士がやられたぞ!」
ここ数十年は国々の諍いもなく平和な世が続くサントハイム。領内に太平を敷く国王の名声は愈々高く、彼を賞賛する民は増すばかりであったが、実のところ当国は些か強大な内憂に城内を慌しくしており、今日もまた夥しい警邏兵が身を包む鎧に汗を噴き出して駆け回っていた。
「姫様は今何処に!」
「目下捜索中であります!」
最初は城門が開いた隙を狙って、次は塀に梯子を掛け、最近では壁を破壊することさえある。手を替え品を替え、何度も城を飛び出すようになってからは、城中に穴ができるようになっていた。遠目からは幾世紀も変わらぬ優美さを見せる白鳥の如き城も、間近に迫れば城壁や扉に痛々しい修理跡がある。
「きょうはつかまらないわよ!」
その修理の原因であるサントハイム王家の一人娘・アリーナは、騒ぐ兵士達の声を遠くに聞きながら、手袋をはめた拳をギュッと握って気合を入れた。
北門の兵士を倒して逃げたと見せかけて、人通りの少ない西門の城壁から脱出する。これまで正面突破を図ってきた彼女にとって陽動は新しい試みで、我ながら知恵を働かせたものだと密かな満足感に浸りながら、アリーナは壁に掛けた縄を手繰って降りていく。馬小屋からこっそり拝借したそれをクルクルと丸めて用意した鞄に収めると、彼女はそのまま森へと伸びる街道を走ろうと踵を返した。
万事抜かりなしと安堵したその時、街道沿いの大樹の陰に人の気配を察してギクリとする。
「だれ、」
然し刹那のうちに過ぎった不安は、木陰に座る者がまだ年端も行かぬ子供であると判明った途端に霧散した。それどころか自分と同じ位の子供であるという不可解な仲間意識が、脱走を試みる少女を奮い立たせるものにさえなる。
「そこのあなた!」
アリーナはまだ括れもなく丸みを帯びた腰に手を当てながら、指差した右手を真っ直ぐ少年に向け、確りとした口調で呼びかけた。
「はい」
忽然と城の高塀からやってきた少女に対し、少年は意外にも丁寧に返事をした。突然現れたアリーナにも然程驚かず、寧ろ膝に広げた古書にこそ興味を注がれていたようで、後ろ髪を引かれるように羊皮紙から目を離して顔を上げる様はあまり子供らしくない。
ややぼうっとこちらを眺める少年に対し、アリーナは「時間がない」とばかり慌てた表情で彼に近付く。既に城内より湧く喧騒は近くなっており、「姫様は何処だ」と言い合う声がハッキリと耳に聞こえてくるのだ。
「いまよりここにくるものに、こういいなさい」
静かに本を読んでいた少年の耳にも、城内の兵士達が騒ぐ声が届いただろう。アリーナは目の前の彼が兵士達が血眼になって探す手配人に気付き始めるのと同時に、それを制するべく命令をしていた。
「たったいまみたおんなのこは、むこうにいったって」
その口調はまさに民を統べる王族ならではの風格。まだ堅信の加冠すらせぬ少女ではあるが、小さな身体から放たれるオーラは人の上に立つに相応しい気品に溢れている。
木陰に腰を落としながら顔を上げた少年に、王女アリーナの言葉がどう伝わったかは分からないが、彼は読んでいた古書をパタンと閉じると、彼女を見て静かに口を開いた。
「うそをつくのはいけません」
ハッキリとした口調で言を放った時に返ってくる言葉は「イエス」しか知らなかったアリーナにとって、「ノー」ですらない返事は激しい不意打ち。予想外の台詞にアリーナが内心驚いて彼を見ると、木陰の少年は次に大樹の幹にゆっくりと背中を預けながら、やがてスッと瞼を閉じて言った。
「わたしはここで、ねむっていたことにしましょう」
これならば兵士達に行方を伝えて彼女を不利に追い込むこともなく、自らが偽る罪を犯すこともない。
「では、おやすみなさい」
瞼に縁取られた長い睫が、枝葉の隙間より零れる光にキラキラと輝く。柔らかな風に撫でられた前髪をサラサラと流しながら、少年は膝元に置いた大きな書物を大事そうに抱え、背の大樹に首を預けて眠りに就いた。その寝顔の何と穏やかなことか。
「……」
王女を前に居眠りをし始めた少年の寝顔にポカンと口を開けたアリーナは、呆気に取られる間もない。次第に接近してくる兵士等の騒ぎ声に慌てて意識を戻すと、彼女は森に続く街道を一目散に走り去った。
「……へんな子!」
息を切らした彼女が開口一番にそう言ったのは、森に入って随分と経った頃である。
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一方の少年は、アリーナが走り去った後に堰を切ってやってきた城内の兵士達には目もくれず、彼女の足音が消えるや否や閉じていた瞳をパチリと開き、すぐさま木陰から飛び出していた。
「神父さま!」
凡そ慌てて走ることなどない彼が、持ち物も鞄に仕舞わぬまま駆けてくるとは珍しい。コツコツと小刻みに扉を叩いたと同時に、少年は急いでドアノブを回していた。
「神父さま!」
「おや、クリフト。どうしました、そんなに慌てて」
ノックの返事もろくに待たず、急かすように開けられた扉の奥に神父が見たのは息を切らした少年。神学校の初等部に入ってからは、大人が心配になるほどの落ち着きを見せ始めた彼が、これほど動揺を露にして己の下に来るとは。幾許か彼の子供らしい面を見て興味を深めた神父は、息を整えぬまま口を開こうとする彼の言葉を待った。
「その、天使さまを、みました」
「天使?」
彼が嘘はおろか冗談を言う性格でないことは勿論知っているが、真実に輝く瞳は訴えるようでもあり、今しがた受けた衝撃を懸命に伝えようとしているのは間違いない。突拍子もない言葉を聞いた神父は、彼がそう言を発しながら小さな手より古書を溢しそうになる様に微笑しつつ、皺が深くなりつつある目尻を細めて次の科白を待った。
「つばさのない天使さまでした」
抱えた古書から栞が落ちるのも気付かず、少年は「あと、おんなのこでした」と付け加える。神父は大きな瞳を真ん丸にさせて今の驚きを伝える彼の姿を見つめながら、聖堂の外の喧騒が一層大きくなるのに耳を傾けると、
「それはアリーナ姫というお転婆な天使ではありませんでしたか」
と笑みを零した。
Chiudi dentro me
La luce che
Hai incontrato per strada
(私の中にあなたは光を注ぎ込んだ)
(道端で見つけた光を)
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