「腕力が足りなくて良かったな」
でなければ器物損壊の罪深さで懺悔していただろうと、クリフトの拳に包帯を巻きながら神父が言った。
「姫様であれば、石柱の方が壊れていただろうに」
「……」
眼鏡の奥から皮肉ってみたものの、白い包帯に包まれた拳を見つめたままの青年から返ってくる言葉はない。回復魔法は必要ないと断り、重く押し黙ったままのクリフトを一瞥した神父は、救急道具を棚に仕舞うと部屋を後にした。
「よく祈りなさい」
よく祈れとは、反省し、向き合えということか。否、ここでは「後の仕事はやっておくから、一人になって考えろ」という意味だ。
残されたクリフトは、痛めた拳をそっと片方の手に包むと、じっと見つめたまま沈黙を続けた。
さて、どうしたものか。
石像のように青白い顔をして沈黙した年若き兄弟に何が起きたか、大凡の目処はついているが、クリフトがこうなっているならアリーナはどうであろう、と神父が足を運ぶと、
「いやはや、」
こちらは砕けた石像が何体もゴロリと床に転がっている。
「神父さま」
「姫様。ご機嫌は良くないようですね」
「……」
ソファに寝転んだアリーナは、神父のゆったりとした表情を見ると、弾力に顔を埋めた。
「フラれたの。今日は誰とも会いたくないわ」
成程。両想いか、と神父は内心苦笑したが、敢えて知らないふりをする。
「おや、王子と会うのは今夜というのに、もうフラれたとは可笑しな話ですな」
「……」
アリーナからの返事はない。ただでさえ失恋で心が裂けそうなところを、今夜の話をされては更に心が沈む。悲しみに暮れることもままならぬ身を嘆くように、彼女は泣き腫らした佳顔をソファに何度も擦り付けた。
「姫様」
神父は柔らかい溜息を小さく溢すと、ポケットに手を忍ばせて何かを取り出して見せた。
「お困りの時はお使いください」
「何?」
ソファの隙間に顔を埋めていたアリーナが、赤い瞳を見せながら起き上がる。泣き腫らした目元を慈しみの瞳で見つめながら、神父は優しく言った。
「畑の小屋の鍵です」
「畑?」
「聖務の合間に土をいじっておりまして。此処がとても穏やかになれる」
神父の趣味は農業。花や野菜を植えて育てるのが至福で、今は小屋を作って楽しんでいるという。中に保管した農作物などは盗まれても構わないが、鋤や鍬などの管理は厳重にすべく鍵を作っていた。
「姫様も、お忍びで来られると良いでしょう」
「抜け出していいの?」
「お得意ではありませんか」
「そうだけど……」
クリフトという場所を失った彼女に、代わりになるかどうかは分からない。しかし、今にも手折れてしまいそうな可憐な一輪を、別の土に移してやることは大事だと思った。
「逢い引きですよ」
「神父さま」
冗談っぽく笑って見せれば、僅かに花も笑う。
「愛嬌が過ぎましたな。私が居ない時にもお使いください。その為の鍵です」
神父はアリーナが見せてくれた小さな笑顔に柔らかい笑みを返しながら、「では」と立ち上がった。
「あなた方に神の祝福があるように」
彼が複数を示したことに、失恋に心騒ぐアリーナは気付いただろうか。両手に包んだ鍵をまじまじと見つめる彼女を背に、神父は教会へと帰っていった。
□□□□□
鍵は好きだった。
冒険で鍵を手に入れる度、アリーナは扉の向こうに広がる未知なる世界を夢見たものである。秘められた世界、閉ざされていた道を切り開く鍵は、己の冒険心や好奇心が込められているようで、旅を終えた今も大切に持っていた。
できることならば、また旅を……。
「アリーナ」
サントハイム王の声に続いて、老臣ブライの冴えた声がアリーナを呼び戻した。
「姫様」
「えっ」
振り返ればジロリと重たい視線を注ぐ馴染みの顔が、いつにも増して苦い表情で無言のプレッシャーをかけてくる。
「アリーナよ。聞いていたかな?」
先程まで支度をしていたと思ったが、目の前にはもう賓客が居るではないか。鍵の事をぼんやりと考えているうち、王子を迎える夕刻にまでなっていたらしい。もはや自分がどのように王の間まで運ばれたかは分からないが、見れば父王をはじめ、多くの重鎮達が迎賓の装いに身を包んで並んでいる。
「えっ……と。はい」
サントハイム王の問いに瞳を泳がせたアリーナは、小声でブライに助け舟を請う。
(デスパレス領主のアンクルホーン……?)
(ゴルドパレス領主の第二皇子クアルホン様でございます)
「はじめまして、アリーナ姫」
アリーナと瞳を合わせた王子は、口元に柔らかい笑みを作って恭しく礼をした。
「ご……ごきげんよう」
マーニャが居れば狂喜したであろう大層な美形。絵本から飛び出してきたような、まさに王道を行く男である。凡そ人の外見に疎いアリーナでも、彼が屈指の美男であることはすぐに分かった。
外相が彼の肩書きや領内での事業を事細かに説明するのを、サントハイム王は満足そうに耳を傾けている。途中、サントハイム領内を見聞してきたという彼は、時折自身の博学を織り交ぜながら意見を述べたが、王の施政を称える様は弁も立つと見える。普段は厳しい視線でアリーナや侍女らの振る舞いを見つめる女官長が、恍惚の表情を浮かべて見つめている点からしても、彼はサントハイムにおける「大本命」というところか。
(やっぱり……体の良いお見合いなのね)
熱い眼差しを注いでこちらの反応を窺う男も、彼を見定めるような大臣等の視線も。それぞれの思惑が入り乱れる中、自分だけが馴染めずにいる。悲鳴を上げたくなる心の声を押し殺し、アリーナは毅然と姿勢を正した。
「堅苦しいのも何じゃ。すぐに宴とまいろうか」
サントハイム王の発声によって厳粛な謁見は終わり、王の間より場所を変えて歓迎の宴が用意される。立ち上がった王は隣に控える愛娘に晴れやかな笑顔で言った。
「アリーナよ。王子に案内を」
「……はい」
それまで彼の案内をしていた外相は退き、アリーナの紹介を以てこの役は交代となる。
「宜しくお願いします」
美しい微笑を見せた男に、責ある王女として笑顔を返せただろうか。アリーナの胸中はそればかりが不安であった。
□□□□□
「噂には聞いておりましたが、まさかこれほどお美しいとは」
宴が終わって、客室へと戻る前に城内を回りたいという王子の願いにより、アリーナは彼を案内することになったが、その表情は上の空だ。
「まるで天使か女神のようだ」
美形の王子がここまで言うなら世辞だろうと、アリーナはまるで遠くの声を聞くように彼の言葉を聞いている。ろくに返事をしていないが、内容もほとんど耳に届いていない。流暢に紡がれる科白の中で、ただ一つ気にかかった言葉を拾って不意に反芻した。
「天使」
「えぇ、誠に貴女は天使のように輝いておられる」
天使と聞くと、神父を思い出す。神父は時折アリーナのお転婆を「天使の戯れ」と笑っていたが、元々はクリフトを揶揄ったものだ。それは彼がアリーナと初めて接触した時、彼女を天使と見紛ったことに拠る。
「天使だなんて……」
最初これを聞いた時は驚き呆気に取られたものだが、彼との恋に破れた今なら痛いほど理解る。クリフトは自らが仕える神の御使いに準えるほど目を注いでくれたということ。愛してくれたということ。
「……」
「アリーナ姫?」
片道の恋ならば諦めもついただろうにと、アリーナは遠い視線を窓より投げて宵の景色を見渡した。
「どこか寂しい瞳をしていらっしゃるようですが、心配事でも?」
虚ろな瞳で遠方を見つめ、己を映さぬことは端から気付いている。王子はアリーナが見やる方向を同じく眺め見ながら、静かに問うた。
「話すことで軽くなる事もありましょう。他言はしません、どうぞお話を」
「……ならば申し上げます」
アリーナは、もはや彼の機嫌は取るまいと決めて振り返った。もとより断るつもりの縁談である。彼に嫌われようが、失望されようが、如何様になっても構わないと思った。
「午前の事です。恋を……失いまして」
たった数時間前の事だ。今はこうして公人らしく振舞っているが、ほんの少し前までは、一人の女性として想いをぶつけ、傷つき、泣き腫らしていた。
「いつの間にか恋に落ちていて、それからずっと好きだったのに、……想いを受け入れて貰えなくて」
「それは」
「初めて彼から拒む言葉を聞きました」
初対面の花婿候補にこんな事を話すなんて、とアリーナは自身でも驚いている。しかし、サントハイムの人間ではなく、慣れ親しんだ冒険の仲間でもなく、何の接点もない目の前の男に打ち明けようとするほど、その心は揺らいでいた。
「今は何も考えられなくて」
ごめんなさい、と言うつもりだった。
何も事情を知らぬ彼に突拍子もない事を告白したことも、彼の求愛を今しがた話した想いによって断ろうとしていることも、全て含めて謝るつもりだった。
しかし、
「それは良かった」
「?」
彼は意外にも柔らかく微笑んでいる。
「フラれた直後というのは、揺れる貴女を奪い易い」
寧ろ彼は即答で断られると思っていた。彼女が噂通りのネンネ姫で、アリーナに恋の気配がないならば、「興味がない」と一蹴されることすら覚悟してきたくらいである。彼女が恋に心を揺らし、また今しがた失恋して乱れた心のままであるならば、彼の経験上有利であることは自明。
「私には好都合ということです」
不意に野心が灯るのは、他の男に傷付けられた少女を我が手中に収められるという期待。心乱れる美しい彼女を、揺らぐままに腕に包みたいと思うのは欲望か快感か。
「それはどういう……」
「こういう事ですよ」
アリーナと同じ景色を眺めていた筈の男は、壁に手を掛けて彼女の進む道を塞ぐと、そっと身を屈めて瞳の中に飛び込むように見つめる。
「アリーナ姫」
呼び声がこれまでとは違うトーンに代わり、甘やかな低音に耳を震わせたアリーナは咄嗟に警戒して身構えた。
「っ、ご挨拶は先程しました」
クリフトに言われた通り、アリーナは彼の口付けを遮るように右手を出す。手の甲に接吻を受けることで、至近距離に迫る彼を断ることができると思ったが。
「ご挨拶ではありませんよ」
火の点いた狩人を止められる獲物は居ない。彼は差し出された右手を、一応は掌で迎えつつも、そのまま細腕まで撫でるように手繰り寄せてアリーナの腰元に近付いた。
「やっ」
「これは私の気持ちです」
逃げ道は壁の手に阻まれ、片方の手は絡め取られて広い胸元へ。情熱に色付いた雄の瞳に見入られたアリーナは、僅かに抵抗して身を小さくしたが、細顎を捕らえた彼の指が逃がさない。
「美しい女性(ひと)。私ならどれだけでも愛して差し上げられる」
低く甘く囁かれた言葉に、アリーナの身が震えた。
サヨナラを言わなきゃいけないの
あなたという男性(ひと)に
あなたという恋に。
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