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 クリフトとアリーナの間に何もない、とは言えない。
 二人が長きに渡り旅をして深めた絆は、命を賭した冒険を経て揺ぎないものとなったことは間違いなく、恋に結ばれた男女のそれにも劣らぬものだと互いに思っている。それはブライ老をはじめ、導かれし8人の仲間達が自負している感情だ。しかしクリフトとアリーナが他のメンバー等と異なるのは、そこに異性としての意識があるかどうかだ。
 多くを語らずとも理解り合う会話や、戦闘時の阿吽の呼吸は通じ合うものがあったし、特に道中の他愛ないやり取りなどは、恋人同士のように甘やかに感じることさえあったほど。そして、何よりも。
……
 クリフトは、ひんやりとした聖典を山のように抱えながら、書庫に向かう足でぼんやりと考えていた。
 冷たく、少し湿気を含んだ厚い本。クリフトの腕にのしかかるそれは何とも温もりの感じぬものであったが、それが返って過去の感触をじわじわと思い起こさせる。
 嘗て、クリフトはその腕に言い様のない温かさを感じたことがあった。
(この腕が)
 鮮明に蘇る。
(姫様を抱きしめた)
 それは、冒険の中盤にサントハイム城へ戻った時のこと。
 城に棲むモンスター全てを駆逐したにも拘わらず、人の戻らぬ城を前にアリーナが慟哭した。これまで一縷の希望を頼りに気丈に振舞っていた彼女が絶望を突きつけられ、張り詰めた糸が切れたように崩れ落ちた時だった。刹那、クリフトは迷わず抱き締めていた。
(この腕に包んだ)
 アリーナは子供のように嗚咽し、クリフトは小さな彼女を覆うように抱いた。彼女は一頻り泣き叫び、時折クリフトの胸板を掻き毟りながら、涙を流した後は背にその細腕を回していた。お互いの心臓の鼓動を聞きながら長い時を共有したことは、仲間ですら知り得ぬ秘密であるが、忘れられよう筈がない。
 あの時の感情が、今も積年の想いを諦めようとするクリフトを揺さぶっている。
(いや、あれは一時の陶酔だ)
 冒険という苛酷な非日常の連続で、頼るべき同郷の仲間が近しい年齢であったからこそ。アリーナと通じ合えたような感触は、非現実下にあった一過性の陶酔に過ぎない。
 唯あるのは、この身には相応しくない思慕の感情。出会った時から天使と見紛った瞬間に落ちた我が恋だけだ。
……考えても無駄だな」
 元々秘めると決めた恋だ。縋ることも許されぬ。
 クリフトは短く息を吐きながら、己の両腕に積み上げた聖典を今一度抱え直すと、自虐を込めて苦笑した。
 
 
 
 
 
 
「クリフト!」
 書庫へと入るクリフトの足を、鋭い声が止めた。
 本を抱えたクリフトが頭を傾けて前を見れば、アリーナが怒りを露わにした表情でこちらへと迫ってくる。
「姫様」
「お父様が……!」
 声を掛けたクリフトと、姿を捉えて直ぐに話を切り出した彼女の声が重なった。
「お父様が、求婚してきた男性と会うように言ってきたわ」
 早い、と思ったクリフトは、しかし表情はそのままに彼女を見る。件の謁見から幾日も隔てていないことからすると、サントハイム王の対応は電光石火の早業であったが、王との接触を知らぬアリーナを前にそのような事も言えず、クリフトは息巻く彼女をただ見つめる。
「半分持つわ」
 アリーナはクリフトが抱えた山のような聖典を取り上げると、軽々と運んで彼を書庫へと促した。
……ありがとうございます」
 このような感情の最中にあっては距離を置くべきだと思っていたが、アリーナの表情を見るにそれも出来そうにない。彼は先行する彼女の背に複雑な謝辞を述べつつ後に続いた。
 
 
□□□□□
 
 
 アリーナは余程の困惑と怒り、不安と躊躇いがあるのか、椅子にもかけずに話を切り出した。
 聞けば今朝、ドレスの丈直しをするからと仕立て屋が採寸に訪れたらしく、直近の外遊や催しも思いつかなかった彼女が女官長に質したところ、サントハイム王から命令があったという。
「今夜、小さなパーティーを開くなんて。聞いてないわ」
 名目は外国の皇太子の視察を歓迎するといったところであろうが、その相手をするのがアリーナというのであれば、実質はお見合いだ。
「今から身支度を整えるようにって」
「それで逃げて来られたのですか」
 クリフトは穏やかな声で言ったが、アリーナはその言葉に過敏に反応する。
「いやよ! いや。会いたくないわ」
 知識を備えつつある彼女は良く分かっていた。皇太子を迎えるということは、夕食を共にし、ダンスの相手もせねばならず、談話には常に側に居なくてはならない。そしてパーティーが終われば、二人きりで話をするよう仕向けられるだろうし、彼が「おやすみ」と寝室へと入るまでは退室も適わぬだろう。その時に何が起こっても、アリーナは逃げられない。
……キスされるかもしれないんだよ」
 俯きながらアリーナはクリフトに訴えたが、彼の返答は変わらず穏やかだ。
「先に手を差し出せば、柔らかくお断りできましょう」
 しかし満足できよう筈もない。
……そうじゃなくて」
 求める答えではなかったアリーナは、暫く押し黙ると、静かに口を開いた。
「クリフトは止めてくれないの」
 ポツリ、と出た声に、呟くように言葉が続く。
「お父様に、私が嫌がってるから止めるよう言ってよ」
「姫様」
「こんなの間違ってるって、クリフトが言えば理解ってくれるかもしれないじゃない」
 天空を統べる竜の神に祝福を受けた彼である。彼がアリーナの心情を慮って道理を説けば、サントハイム王も聞き入れてくれるかもしれない。
「私は神の従者。時の王に物申す立場にはございません」
「そう、だけど」
 クリフトの立場はよく理解っている。彼がどれだけ徳を積もうと、我が身を置く王宮の権力に介入できるわけではない。アリーナがクリフトに命令することができないように、彼もまた政治に口を挟める立場ではないのだ。
「理解ってるけど……
 頭では理解できる。しかし感情では認められない。
 彼が神官であることの意味は以前から重々と承知していたが、それ故に認めることのできない想いが膨らんでいく。
 堪らなくなったアリーナは、ギュッと手を握り締めて言った。
「じゃあ、キスしてよ。クリフト」
「姫様」
「キスして」
 アリーナは伏せていた顔を上げ、クリフトの瞳を真っすぐに見つめた。
「だって、他の人とするかもしれないもの」
 アリーナの言は「だって」と言うほど理屈はない。別の知らぬ男と唇を交わす前に、クリフトと済ませておきたいという科白に、導き出される答えはもはやひとつだ。
「戯れは止して下さい」
「戯れなんかじゃない!」
 クリフトは躊躇して言ったが、アリーナは強く首を振って否定する。
「クリフトにキスして欲しい」
 アリーナの心は暴かれた。クリフトがそれ以上に彼女に説明を求めることなどない。
「一度でいいの。そしたら忘れられる」
 たった一度でいい。貴方の心が欲しい。
「姫様……
 アリーナの真剣な瞳には懇願の念が込められている。彼女もまた己と同じ恋をしていたのだと気付いた瞬間、クリフトは全身が震えたが、込みあがる感情は歓喜や幸福の類ではない。
「まさか」
 掌を空に投げたクリフトの声は少し震えていた。
「一度の口付けで終わる恋などありますまい」
 実らせてはならぬ恋だと、クリフトの体中が警告していた。今、想いのままにアリーナを受け容れてしまえば、彼女の将来を茨に包んでしまうことになる。他国の王子という理想の結婚が目の前に整いつつある時に、その道を塞いではならない。
「貴方には相応しいお相手がいらっしゃる。私の他に」
 いずれ自分は彼女を裏切ることになると思っていた。それは、サントハイム王に進言した時から覚悟していた事だった。彼女に別れを告げる時が来ると。……それが今だ。
……
……
 長い沈黙に、アリーナが唇を咬む。余程彼女の言動を受け容れてきたクリフト、彼とは兄妹や恋人のように幾許の時を共にしてきたが、その彼に最も望むものを拒まれた痛みは如何ほどか。
 薔薇色に膨らんだ形良い唇が、震える歯に傷つけられる痛々しい様に、クリフトはこれ以上の言葉を紡げない。今ここで彼女を突き放さなければ、芳しい悦びに僅かにも揺らぎそうになる己を制することが出来なくなってしまうのだ。
……嘘、」
 重苦しい静寂を、アリーナが小さな声で破った。
「冗談よ。もう忘れて」
 明るく振舞おうとしたが、震える声ではそれも適わぬ。
 彼女が偽りを告げていることは百も承知だが、それを嘘だと言ったところでアリーナの心を余計に乱すだけだ。クリフトは何も言えなかった。
……ごめんね。困らせて」
 アリーナは小さく呟くと、瞳を合わせぬままクリフトとすれ違い、そのまま重い扉の隙間を縫うように走り去った。
……
 僅かに作られた風に頬を撫でられたクリフトは、拳を固く握ったまま沈黙する。
 次の瞬間、クリフトは傍の石柱に震える拳をぶつけていた。
 
 
 
 
 

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