二人が城内より脱出した時には、激しい雨脚がサランへの道を塞いでいた。
「雨なのは幸いです」
既に地面が泥濘始めている今なら、足音も足跡も消してくれよう。ただ、雨が全ての懸念を流してくれる訳ではない。
「城下町へ向かったとしても、すぐに追手は来るでしょう」
「どうしたら……あっ!」
「姫様?」
降り頻る雨を見上げていたクリフトが、アリーナの声に振り向く。
「鍵……! 神父さまから鍵を貰ったの」
「鍵?」
「畑の小屋の鍵よ。寄進聖領の」
アリーナは胸元が大きく開いたドレスの肩口をグイと引っ張ると、右肩から襷掛けに結ばれた革紐が覗いた。クリフトは暴かれた白い柔肌に慌てて目を逸らしたが、その奥に彼女が言う鍵が繋がれている。
「持ってて良かった……」
揺れ乱れる心を保つ為に肌着の下へ隠しておいた鍵が、追い詰められた自分を切り開いてくれるような。アリーナは服の上からギュッと鍵を握り締めると、クリフトを促した。
「寄進聖領とは、不謹慎な」
サントハイム王家より寄進を受けた緑の領地は、聖霊の息吹が絶えぬよう手付かずの自然に保たれているはずだが、畑とは何事であろう。クリフトは意外な事実に面食らって瞳を丸くしたが、批難している場合ではない。
クリフトは上着を脱ぐと、露出の多いアリーナの身体に掛けて肌を覆いながら、空を仰いで言った。
「外套でありませんので、すぐに濡れてしまうでしょうが」
「構わないわ」
「走りますよ」
クリフトは再びアリーナを抱え上げると、重たい雨粒が打ち付ける暗い道を駆けていった。
雨脚は更に激しくなり、空より振り落ちる大きな滴は、薄手の二人を容赦なく打ち付けた。
クリフトは濡れきった前髪が束になって己の頬に当たるのを感じながら、泥濘の暗路を真っ直ぐに駆けていく。
「姫様」
温い雨粒が額から滴るのを感じながら、クリフトは前を見たままアリーナを伺う。
呼ばれて彼女は顔を上げたが、この薄闇にも分かるほど顔面は蒼白だった。あの場から逃げる事には成功したが、その表情は書庫の扉の前に現れた時より何ら明るくなっていない。
「あのね」
暫くの沈黙の後、アリーナは紅の落ちた唇を震わせて、静かに口を開いた。
「抱き締められて、キスされちゃったよ」
一番言いたくなかった事を、敢えて最初に言う。
アリーナはこれを聞いたクリフトの反応が気になったが、横抱きにされた今は表情を知ることは出来ない。彼女は視線を落として長い睫毛を伏せると、パシャパシャと水を蹴るクリフトの足音を耳に言葉を続けた。
「……全然動けなくて、逃げられなくて」
小さな声が雨空に滲む。
「怖かった……」
あの時、あの瞬間。先ほどの光景が執拗に脳裏を過ぎり、消したくても離れない。
手を取られ、胸元に引き寄せられたアリーナは、拒もうと声を発する間もなく唇を塞がれた。深い口付けは何度も紅を味わい、形を辿り、柔らかさを反芻するように繰り返され、力を奪われた身体はされるがままに抱き寄せられた。
「私、何もできなくて。何も考えられなくて」
刹那、心に広がったのは言葉にできぬ後悔と悔しさ。心が虚ろで隙があったとはいえ、誰とも知らぬ男にあそこまで許してしまった自分が歯痒い。
その後は防衛本能のままに腕を振り払い逃げてきたアリーナだが、完璧に打ちのめされた挫折感は拭えよう筈もなく、憔悴して彷徨った結果、気付けば書庫の前に辿り着いていた。
「……」
ぽつり、ぽつりと言葉を紡いだアリーナは、薄く開いた瞳から暗い夜空を見つめる。公務と割り切ってドレスに袖を通した自分が甘かったのか、こうなると予想していながら現実を見ないようにしていた自分が浅はかだったのか、とにかく流れに身を任せてしまった自分が腹立たしい。
「こんなに私、弱くなってたなんて……」
以前ならもっと体良く逃げただろうにと、見れば今の自分にお似合いの雨。
どうしようもない感情に揺れ動く己の代わりに夜空が泣いているようだと、アリーナは夏の到来を感じさせる温い雨雫を肌に受けた。
「……」
胸元で小さく語った少女の言葉は、雨の中を走るクリフトにどれだけ届いたろうか。暗夜に足音だけを残し、押し黙ったまま駆けるクリフトから声が発せられたのは、長い沈黙の後だった。
「姫様」
アリーナは彼の腕の中で、顔を上げてその声を聞いた。
「正直に申し上げます」
ただ前を見て走り続けるクリフトの表情は、胸元のアリーナからは伺い知れない。アリーナは彼の硬い声色に耳を澄ましながら、じっと喉元を見て言葉を待った。
「私は過信しておりました。貴女が誰かの手に渡っても耐えられると」
書庫の扉の前に立ち尽くしていたアリーナの表情を見るその瞬間まで、クリフトはそう自己完結していた。
「己の恋に別れを告げれば、痛みも受け容れられるだろうと」
サントハイム王に助言を求められた時、勝手に自分だけのものと決めていたアリーナを手放す覚悟を決めた。彼女を拒んだ時、狂おしい恋を捨てて見守ろうと決意した筈だった。アリーナへの愛が永遠ならば、他の男を選ぶ痛みにも耐えられようと。
しかしそれは間違いだった。大いにクリフトは自らを見誤っていた。
「扉の前で貴女を見た時、言い知れぬ後悔で満たされました」
花の蜜が零れるようなアリーナの笑顔を奪ったのは、彼女の唇を強引に奪った男であったか、否。アリーナの心を手折ったのは紛れもなくクリフト自身だ。愛しい女性をこんな表情にさせた男に対する激しい怒りと嫉妬で心が澱みさざめいたのは事実であるが、それ以上に苛まれたのは自らの愚かさだ。
「最早どうなっても貴女を放したくない」
「クリフト」
「誰にも渡したくない」
パシャパシャと泥濘を駆ける足音が変わったのは、寄進聖領の森の奥、神父が手入れをしているという畑の小路へと着いたからだ。彼はゆっくりと速度を落とすと、木々の枝が広がりアーチを象る細道にアリーナをそっと降ろし、彼女の髪に乗る雨滴を払う。
彼女の脚を地へと導いた手はそのまま、指を絡めるように繋いでクリフトはアリーナを見つめた。
「姫様」
愛している、と言ったのか。
濡れた頬を長い指で辿りながら、クリフトは紅の落ちた薄桃の唇に身を屈めて口付けた。
「……」
「……」
そっと、優しく包み込むようなキス。彼の今の激情からは凡そ想像もつかぬ静かな接吻に、アリーナは全身を奮わせた。
重く温い雨が肩を濡らし肌に絡む中、胸の中に広がる熱いもの。唇で受けたものが刹那のうちに感動で全身を満たしていく。
「クリフト」
確かに聞こえた、愛を囁く低い声。
優しく触れて離れようとした唇が惜しく、アリーナは繋ぎとめるように名前を呼んで言った。
「クリフト、もう一回」
彼が身を起こす瞬間、雨に濡れた胸元のシャツを掴んで上目見る。
長身の彼の唇が次に降り落ちるのは、今の雨よりもないことのように思えたからか、クリフトの気持ちを確かめたかったからか、アリーナは尚も不安気にクリフトを見つめていた。
クリフトは雨に濡れて束になったアリーナの前髪を額のラインに流しつつ、今度は両手で彼女の頬を包みながら、まるで瞳に飛び込むように強く言った。
「言った筈です。一度の口付けで終わる恋はないと」
秘められた恋が暴かれた瞬間は情動的だ。
クリフトはアリーナの濡れた髪や肌を撫でながら、華奢な体躯を包み込むようにかき抱いて唇を塞ぐ。大きく身を屈めてアリーナを抱き締め、深く深く唇を寄せれば、腕の中のアリーナが隠れてしまうほど。先ほどとは全く異なる、熱い想いに溢れた唇がアリーナに重なる。
多分に二人はずっと前からこうしたかった。嘗て虚城と化した故郷を見て絶望した時から、二人は熱く身体を寄せ合って口付けを交わしたかったのだ。
「アリーナ様」
「クリフト」
黒く厚い雲の立ち込めた夜空には月も浮かばず、ただ銀色の雨がサァと音を立てて闇を濡らすのみ。
木々の枝葉が僅かに傘となって雨から守ってくれるが、この雨量では防ぎきれよう筈もない。時折葉より零れる大きな滴や細かな雨が二人を愈々濡らし、温く絡むような滴がししどに肌を滑っていく。
二人は雨に身体を濡らしたまま、時折砂が混じるのも構わずに、何度も何度も口付けた。
雨に濡れると、何故か口に砂利が入る。
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