「葡萄酒恋しさに隠し通路を掘る神父も居れば、寄進領に畑を耕す神父まで」
クリフトが苦言を繰り返すのは、目のやり場に困っている己の平静を保つためだ。
「しかも、野菜を植えた神父は私の師匠ではありませんか」
怒りを発散することで、すぐ側で身動きするアリーナの媚態から気を逸らそうとする様は、本能と理性との狭間で戦う男の性か。
「コルセットがきつく縛られているでしょ、背中に」
「これですか?」
「そう、解いて」
畑の小屋に到着した二人は、錠のぶら下がる扉の前に居る。
鍵を取り出すにも、窮屈なドレスに身を包んだアリーナからは革紐一つ手繰るのも難しい。「早く」と急かして白い項(うなじ)を晒すアリーナに悪気はないが、ドレスを脱がしてコルセットを緩めろと言われた男の方は気が気ではない。
「外しましたよ」
「……うん、緩んできた。いけそう」
「……」
アリーナはもぞもぞと身体を動かすと、器用に肌に張り付いた革紐を引っ張って鍵を取り出し、急いで鍵穴に差し込む。クリフトは乱れて露わになった美しい背中を一瞬だけ見やると、弾かれたように雨空に視線を投げて硬直した。
「開いた……!」
狭い小屋。
中には鋤や鍬といった農具の他に、これから植える苗も棚に安置されている。
「神父さまも趣味を楽しんでいるわね」
「冒涜と謗られても仕方ないレベルですよ」
「いいじゃない、助けられたんだし」
ふう、と安堵の息を吐いたアリーナは、積まれた肥料袋の山に腰掛けて薄く微笑む。膝を抱えて座る仕草は冒険の頃よりよく見たものだが、懐かしいと思ったか、愛しいと思ったか、クリフトは胸が擽られる。
「これからどうしよっか」
アリーナの声が、薄暗い小屋に溶けた。
「私、今ここでクリフトに全部あげてもいい」
「我が愛しの娘は今いずこぉぉぉ!!」
「落ち着いてくだされ」
「ぬぐおぉぉ! あの皮被りの青二才めぇ!」
「落ち着きなされというのに」
サントハイム王は、玉座に座ることもなく周囲を歩き回り、それを横目で見るブライの苦言も耳に届かず激高していた。
「儂のアイドルにチューなぞしおって!」
「だからと言って殴ったのは問題でしたな」
「あれを見て殴らぬは親でなし!」
「……」
結局、結婚を鈍るアリーナを認めていたのも親の性。ブライは普段の温厚さを忘れて憤怒に身を染めるサントハイム王に苦い溜息を吐いて言った。
「姫様のお見合いの最大の障害は王にございます」
二人の時間を作って互いの事をよく知らねばと、城内の案内役に愛娘を差し出したのは間違いなく父であるサントハイム王であったが、いざ若い男女を二人きりにさせるとなると、不安で満ちてくるのも親というもの。結局二人の様子を見守ろうと陰より覗き見をしていた王は、男の突然のキスに戸惑う我が子を放っておける筈もなく、アリーナがその場より走り去るのに代わって姿を現し、怒りの鉄拳を見舞ったのだ。
勿論、サントハイム王を一人歩きさせられぬブライが後を付けており、咄嗟に眠りの魔法を掛けて王子を眠らせたのだが。
「魔法が解けるまでの間に、何らかの解決を探らねばなりますまい」
「忘却魔法でも掛けておけば良い」
「そんな都合の良い魔法などありますか」
万能と間違われても困る、とブライは苦言を呈したが、今の王では愛娘の無事を見るまでは冷静を取り戻すのも時間が掛かるだろうと思う。
王が引き起こした事の重大さに、大臣を含め王宮の重鎮達が再び王の間へと招集されたが、王子への暴行事件とあっては、直ぐに解決策が見つかることもなく。
ブライは居並び議論する大臣達を眺めつつ、どうしたものかと何度目かの溜息を漏らしたその時、
「お父様」
「アリーナ!」
その声に一同が扉の方へと視線を集める。
「そんなに濡れて……」
「ちょっと頭を冷やしてきたの」
ごめんなさい、と深々と頭を下げるアリーナの姿に、王の間に揃った臣下達は言葉を失う。宴の時は夜も朝へと変えるほど輝かしい光に満ちた自慢の姫君が、裾を泥で汚したドレスを身に纏い、雨に強かに打たれたのであろう乱れた髪を晒しているのだ。ただ、その大きく見開かれた瞳は先の宴よりも強く美しく、表情は冴えて見事なまでに綺麗だった。
彼女の姿を捉えた一同は、両者の言葉を待つべく水を打ったように静かになる。途中、「近衛を捜索より下がらせよ」というブライの指示だけが低く発せられた。
拳を握りながら右往左往していたサントハイム王は、娘の姿を見て漸く足を止めると、安堵の息を吐くと同時に隣で彼女をエスコートする男に視線を移した。
「クリフト。お主がアリーナを連れ戻したのか」
見れば彼もまたアリーナ以上に濡れきっている。濡れネズミと言われても反論できぬほど水が滴っており、掃除係の女中が見れば驚きに顔を歪めただろう。
「いいえ。姫様を城内より連れ出して雨に濡らしたのは私です」
この答えに一同がどよめいた。
「どういうことか」
返答によっては、王子と同じく鉄拳を見舞っても良いと睨んだ王に対し、即座にアリーナが答えた。
「私が選んだのよ。彼ではなく、クリフトを」
瞳を大きくする父を見つめて言葉を続ける。
「城を出た時は、このまま駆け落ちしても良いと思った」
寄進聖領に密かに建てられた小屋で、たった今成就した恋の炎を熱く燃やし、愛の情動のままに全てを捨てて何処かへ行きたいと思ったのは確か。王宮のあらゆる煩わしさを脱ぎ捨て、クリフトの胸に飛び込み、王女でも神官でもない、ただの男と女になってしまいたいと願ったのも事実だ。
「でも、クリフトは私には守るべきものがあると言って帰してくれた」
過酷を極める冒険の、たった一縷の希望が故郷の復興。王宮に人を戻すこと、父王の姿を玉座に戻すことがアリーナの力の根源であった。命を賭して取り戻した我が国、それを守ることは今後も変わらないと、胸元で優しく諭してくれたのはクリフト。
彼を愛したのと同じくらい、彼女は国を愛している。薄暗い小屋で二人きり、此処で胸の高鳴るままに愛を捧げても良いとドレスに手をかけた、その手を制するように包んだクリフトの表情を思い出す。
「私は、お父様が予言して守った国を守りたい」
愛する人と全てを捨てて去る勇気ではなく、全てを受け容れる覚悟をせねばとアリーナは思った。「だから、」
「一緒にこの国を守れる、大好きな人を連れてきました」
王とブライ、そして王の間に揃う城の重鎮達に紹介するように、気高き王女は声を張って言う。雨に濡れたドレスを泥と皺で汚しながらも、その表情は国を統べる者に相応しい気品がある。
「アリーナ」
驚きと戸惑いに顔を青くしながら、サントハイム王は愛娘の表情を伺った。確固たる意思を宿したアリーナの瞳は眩いほど光に溢れている。
「私、好きな人を見つけたので、今後のお見合いはお断りします」
「クリフトは神官ではないか」
「だって、もう好きになっちゃったんだもの」
「だってって……」
愛娘の「だって」には昔から甘いサントハイム王であるが、いつものように「じゃあ、いいよ」とは言える筈がない。
「クリフトは竜の神より祝福を受けた者。ゴッドサイドの聖庁が手放しはしないだろう」
今はサントハイム王宮付きの神官という身分に甘んじてはいるが、聖庁の枢機卿に推薦があった事は王も知っている。聖職界に於いて神の祝福を直に受ける事、その奇跡の重大さを知る王としては、彼を婿として選ぶことは聖職界から逸材を奪うことと等しく、権力の範疇を超えているのだ。
「場合によれば、お前も儂も、クリフトさえも破門だぞ」
「大丈夫よ。会った事もあるけど、教皇さまは良い人だったわ」
「これは良い人かどうかで語るものではない」
「じゃあ、どうするのよー」
これでは堂々巡りの親子喧嘩だ。
顔を突き合わせて言葉を投げあう父娘に、居並ぶ群臣までもが議論を始め、周囲は一変して騒がしくなる。まるで戦争前の軍略会議の如く意見が入り乱れる中、沈黙を続けていたクリフトとブライが目を合わせると、意を通じ合わせたのか、老臣が盛大な溜息を吐いてサントハイム王とアリーナの間に割って入った。
「ブライ!」
「なんじゃ、ブライ」
「……提案があります」
クリフトも同じ事を思っているのだろうとブライは括っていたが、若造の口からはとても言えるまい。王が信頼を寄せるブライが自ら進み出ることで注目を集め、発言を強くさせるのが目的であろうが、嘗て「小僧っ子」とも呼んでいたクリフトの意図するままに自らが動くのはどうにも腹立たしい。
ブライは小さく「貸しじゃぞ」とクリフトを一瞥すると、ポカンと見つめる父娘を前に口を開いた。
サントハイム王はアリーナにゲロ甘。
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