「お父様ったら、」
次にアリーナが教会の扉を叩いたのは、式典の十日前、彼女の寸法に合わせたドレスの数点が届いた頃。想像していたものとは遥かに違った風合いのそれに加え、他に豪奢な扇や冠、顔を隠す派手なマスクを見たアリーナは、あまりの驚きと呆れを訴えるようにクリフトの元へとやって来ていた。
「仮面舞踏会とは変わっていますね」
御堂の奥にある彼の部屋。
僧侶の部屋とはいえ、年頃となった今も恥じらい一つ見せず男の部屋を訪ねるアリーナに、クリフトは苦言を呈するのを既に諦めている。彼は簡素な椅子に腰掛けて紅茶を待つ無邪気な姫君に、期待通りのそれを出して話を聞くことにした。
「新年が近いからって、はしゃぎすぎだわ」
このパーティーの為に嫌という程作法や社交辞令を教え込まれているのだろう、苦言のひとつも吐きたくなったのか、アリーナは幾つか用意された仮面の中にあった道化のマスクを取り、これを被って現れてクリフトを苦笑させていた。
「結婚相手を選べと言うわりには、どの人にも仮面をつけさせるのかしら」
「王様なりに姫様の事をお考えになってのことでしょう」
凡そ結婚に関して無関心だった一人娘に、たった一度の引見で世継ぎ相手を選ばせるよりは、社交界の空気に慣れさせてからの方が良い。それにしては仮面舞踏会とは異質が過ぎるが、サントハイム王家の後継を狙う王族達から愛娘を守りたいが故の父王の機転が働いた結果ということか。
城中の者が消えた過去の恐ろしい一件、あの空白の時間を差し引いたとしても、アリーナの婚約は王家の姫君として遅い。しかし様子見は多い方が良い。クリフトはサントハイム王の心情を慮ると、目の前で仮面を被り諷するようにおどけて見せるアリーナにゆったりと微笑んだ。
「今回は肩の力を抜いて楽しまれては如何ですか」
仮面の下での探り合いがあるとは言え、本心を晒さずに済む。クリフトは納得のいかぬ顔で己を見つめるアリーナに対して、努めて肯定的な意見を述べて安心させようとしていた。
しかし。
「…………」
この言葉では満足いかなかったのか、彼女は無愛想な表情のまま、仮面を膝の上に置いて黙った。
「姫様?」
「クリフト」
彼が言う「楽しむ」とは、受け入れるということだ。それは仮面に偽られた舞踏会における享楽であり、その先にある婚約と結婚を認めることでもある。
「クリフト。私は真剣よ」
会話が途切れて間の空いた時、アリーナは隣に座るクリフトの佳顔を見ずに口を開いた。
「多分、このパーティーで私は変わる。変わらなくちゃいけない」
アリーナは己の拳を固めて続ける。
「クリフトは私が変わってもいいの?」
蓋しそれは本当に聞きたいことではない。他の男と結婚しても構わないのかという問いを、アリーナは敢えて「変わる」という言葉に代えて問うていた。
心の奥底では、アリーナは彼が仮令戯れの仮面舞踏会であろうと、結婚を前提としている以上は引き留めてくれると期待していた。人一倍慎重で警戒心の強いクリフトは、無防備な自分にいつも忠告をしてくれたからだ。
「クリフトは……ずっと変わらないの?」
自分が誰と結婚しても平気なのか。アリーナはクリフトにそう尋ねることで、今まで気になっていた彼の気持ちを知ると共に、自分の気持ちも伝えられただろう。
しかし、返ってきた答えもまた満足できるものではなかった。
「……変化が来る時までは、多分」
先のアリーナと質問と同じく真剣な口調で呟かれる言葉は、アリーナの胸に針のように突き刺さる。
「そう……」
いつもの彼らしい微笑も苦笑も乗らぬ表情が苦しい。自分の心がさざめいている所為か、左程感情の読み取れぬ低音が淡々とそう呟くのを耳に、アリーナは自分自身に向かって言った。
「そうね。クリフトは変わらない」
貴方は変わらない。
アリーナは膝元に置いた仮面をギュッと握って立ち上がると、この場から逃げ出すように踵を返して扉に向かおうとする。これ以上彼を見ていられないような気がしたからだった。
「もう行かなきゃ」
「姫様、」
瞳も合わせずに去ろうとするアリーナに、クリフトは咄嗟に席を立った。
「……姫様」
不意にその手が彼女の手首をギュッと掴む。凡そクリフトらしからぬ挙動。
お互いに動いた所為か、掛けていた椅子の足がガタンと鳴った。揺れた机の上にあった紅茶のカップが陶器の触れ合う音を細かく立てる。
「…………」
「…………」
最初は引き留められたことに驚いて固くなっていたアリーナの手は、クリフトの瞳を見て次第に緊張を解いていく。彼女の逃げる気配がなくなったことを察したクリフトは、強く掴んでいた手を緩めながら静かな部屋でゆっくりと口を開いた。
「姫様」
どうか聞いて欲しい。
クリフトの眼差しは普段の穏便さを露程も見せぬ真剣なものに変わっている。彼はアリーナの大きな瞳に普段は表に出さぬ感情を注ぎ込むように言った。
「貴女がどれだけ変わろうとも、私の忠誠が変わることはありません」
秘め続けていた想いを言うつもりはなかったのに、今やクリフトは躊躇いなく言を紡いでいた。
「私は貴女に永久(とこしえ)の忠誠を誓っております」
冒険をしていた頃より、いや、それ以前から。クリフトはアリーナの手の温かさに触れながら、心から伝わるよう確りと言う。
永遠の忠誠、永久の服従。それは愛を紡げぬクリフトの最大の言葉だった。
「クリフト」
今の彼が言える精一杯の感情であることはアリーナもその瞳で理解る。真摯な眼差しの奥に秘められた切実なものは、悲愴なほど声色に滲んでいた。
「……残酷な事を言うのね」
しかしアリーナは寂しげな笑みを浮かべてそう答えると、彼に捕まれていた手をそっと離して出て行った。
欲しいのは忠誠でなく。
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