「それでは目を悪くしてしまう」
表紙が綻んだ聖典の修繕に取り掛かっていたクリフトは、突然投げ掛けられた声と共に背後から肩を叩かれると、神父が帰って来る頃にまで時が経っている事に気付き、顔を上げた。
「お帰りなさいませ」
「修復に心血を注ぐのも良いが、姿勢を正しなさい」
神父は半ば呆れたようにクリフトの背に手を置くと、子を躾けるように撫でながら背骨を反らせる。竜の神より祝福を受けた英雄の一人であるクリフトの功績は聖職界で既に広く知られているが、彼をこのように扱えるのはこの神父くらいだろう。
助祭として一人前に神父を名乗れるクリフトが何時までも子ども扱いされるのは、幼少からの長い付き合いがあるからに他ならない。神父にとっては、今や精悍な青年に成長したクリフトも、幼き日のあどけなさを面影に残すうちは親心が消えることはない。
「聖水を」
「いや、手は洗ってきた」
椅子から立ちあがろうとするクリフトを手で制した神父は、ふと周囲を見渡して微笑んだ。
「また天使が舞い込んで来られたか」
何故、と瞳を丸くするクリフトを見て神父は続ける。
「お前を見れば理解る」
「はぁ」
城内に舞う埃と、宮仕えする者達の疲労困憊した表情から察するに、神父は此処に来る前からアリーナが騒動を起こした事に気付いていた。そして、いつになく喜々とした空気を漂わせるクリフトを見れば更に事情が窺い知れるというもの。彼は表情にこそ出してはいないものの、春風に似た悦びのオーラは、後姿からでも感じられる。
(……昔を思い出す)
神父は歯切れの悪い返事をするクリフトを流し目に見やった後は、外套の埃を払いながら静かに訊ねた。
「また何か破壊されての懺悔に来られたかな」
「いえ、ご結婚に関してお悩みのようでした」
「お前と結婚したいとか」
「まさか」
さらりと突拍子もない言を放った神父に、クリフトは然程動揺もしない。彼は縫い留めた糸を指で回しながら、アリーナが教会へと逃げてきた経緯を話した。
「結婚の相談をしに来た相手にそれを望もう筈がありません」
「ふむ」
クリフトは、アリーナが身を隠す場所として己を頼るのは、自分が結婚や恋愛の対象ではないからだと思っている。彼女が心の内を明かすのは、十字架を前に素直になる心と同じだ。つまり、男としては見られていない。
「それだけ教会を頼られているということです」
信仰が篤い庇護者を持つ事は大事だ。クリフトは次の世も安泰だとばかり穏やかな瞳で答えたが、それを見た神父は銀の混じった髯を撫でながら静かに言った。
「姫様が頼られているのは、お前の中に見る教会だろう」
「それはどういう――」
聖典の背表紙を縫い合わせていたクリフトの糸が止まる。すると神父は机に積み上げられた聖典の山から一冊を取り出すと、特に精読するわけでもなく目を落としながら言った。
「陛下がお前に尋ねたいことがあるそうだ。明日、謁見しなさい」
□□□□□
神父ではなく、一介の修道者に過ぎぬ自分が何故国王に呼ばれたのか。クリフトは余程不思議な顔をしていたのだろうか、彼の姿を捉えたサントハイム王は苦笑して迎える。
「そんな訝しげに儂を見るな。ブライのように取って食いはせぬ」
「王よ。私とてこんなひょろっこい若造など喰いませぬ」
王の隣にはブライ老。彼もまた嘗て世界を駆け巡って旅した仲間だ。
「いやな、クリフト」
王は老臣の悪態を噛み締めるように笑いながら、玉座より身を乗り出して口を開く。
「スパイをするようで悪いが、アリーナの事だ」
アリーナの名前が出て、クリフトは一瞬、ブライを横目見た。
ブライは普段通りの難しい表情で王の発言を聞いている。
「何ぞ言っておらぬか」
王は何度もアリーナに縁談を持ちかけてはいるものの、いつも彼女が話をはぐらかせることを気にかけており、娘の真意が量りきれず困っているらしい。せめて好みのタイプなどが分かれば良いのだが、と肩を落として語る様は、どこの父親にもありそうな光景だ。
王は一頻り最近の惨敗を話すと、「そこで」とクリフトを見やった。
「仲の良いお主にならば、何か言っているのではないかとな」
仲が良い。この言葉に心が痛むのは何故だろう。
クリフトは否定すべきか肯定すべきか悩んだが、ブライの鋭い眼差しと瞳を合わせれば、今は自分達の親密度が問題ではないことを理解して、口を開く。
「私にも多くを語られませんが」
こう前置きをする事で、自分はアリーナに対する後ろめたさを回避したいのだろうか、とクリフトは自問しながら続けた。
「結婚や恋愛に全く興味がないという訳でもないようです」
「ほう」
「私の見る限りでは、紹介のあった男性に特段の不満も抱えておられませんでした」
「ほうほう、然様か」
自分は何を言っているのだろう。
書庫を訪ねたアリーナは、あの部屋では誰にも聞かれないからこそ吐露した言葉だったろうに、彼女の父である王にこうもペラペラと口を割っている自分が腹立たしい。
「タイプじゃなかったのかのー」
しかし、父として愛する娘を心配するが故に、心境を聞き出そうという王の心情もまた己の胸に迫る。彼女に対する愛情と不安が強く伝わるからこそ、王の人柄によってクリフトは動かされるのだ。
クリフトは首を傾げて娘のタイプを想起する王を眺めながら、相反する感情に飲み込まれそうになる自らを律して立っていた。
「やはり、こう、力自慢のごっついのがタイプとか」
王は言うなり口を歪ませる。
「儂はそういうの好きじゃないんじゃが」
クリフトは苦い顔をした王に「いいえ」と答えた。
「ご自分より強い男でなければという思いはなくなられたようです」
「成程。成長しておる」
聞いて顔を綻ばせた王の隣で、一瞬、ブライの鋭い耳がピクリと動いた気がした。
「では王よ、こうされてはいかがでしょう」
クリフトはブライにジロリと見据えられたように思ったが、老臣の視線は既に王へと注がれている。
「山ほどのお見合い相手を見せるより、一人ひとり実際に会わせた方が良いでしょうな」
「どういう事か」
「山積みの宿題からは逃げますが、一つずつであれば取り組むものです」
現在、アリーナ宛に求婚の手紙が毎日届いているのだが、彼女の性格からすると、山のように積みあがった書状を読むことすら億劫に感じることだろう。実際、アリーナはそれらの封を切った試しもない。ならば紙の山から選ぶことより先に、求婚者を城に招いて引き合わせた方が手っ取り早いのではないか。
「ほう、実戦から学べと」
「姫様にはそれが合っておりましょう」
このままでは進退ままならず、というのが両者の本音だ。ブライの提言に王も是を返す。
「クリフトはどう思うか」
膝を打った王が相槌を求めるようにクリフトに問えば、
「姫様の人を見る目は確かです。良い方を選ばれるでしょう」
アリーナの性格を見越したブライの案に特段の落ち度もなく、自分が彼の立場なら同じくそう進言したであろうものに、異を唱えよう筈もない。ただ、是と答える自分に内心で苛立ちを覚えるのは確かだ。冷静な面持ちで述べる反面、心がいつになくさざめいているのは、縁談から逃げようとしている彼女を裏切ったことと、自身の思いをも偽った事に対する後ろめたさだ。
「では、そのように手筈を整えよう」
王がそう言うと話は終わった。聖職者として王家の縁談に関われぬクリフトは深く礼をして去るのみ。労いと感謝の言葉を賜って退室したクリフトは、教会へと帰る廊下で深い息を吐いて独り言ちた。
(自分が言ったのだ)
アリーナが枷をしていた歯車を動かしたのは自分だ。内心では己もまた動かぬよう願いながら傍観を決めていた歯車を、自ら枷を解いた。
(そろそろこの気持ちと決別する時が来たのかもしれない)
クリフトは赤い絨毯の深い弾力を足に感じながら、静かに階段を下りていった。
「さよなら」をいうとき。
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